熊は風の始まりを語る(14)
細く、今にも千切れそうな糸を左右から引っ張る。ピンと張りつめた糸は、その中心から繊維が解れるように細さを増していき、やがて、耐え切れなくなったところで二本に分かれる。
その寸前、ピンと張った状態のまま停止すると、糸はやがて千切れるかもしれないが、しばらくは細くなった状態のまま維持される。
ただし、少しでも触れて、少しでも糸が撓むと、その瞬間に糸は限界を迎えて、中心から二本に分かれてしまう。
その千切れた状態を終わりとして、今の久遠の状態はその糸がピンと張りつめた状態だった。
軽く触れただけで終わりだが、まだ終わってはいない。どうして耐えているのか自分自身でも分からない。ほんの少しのきっかけで崩れるような脆さのある状態だ。
その状態のまま、自分自身が続いている理由は何なのか。久遠自身が疑問に思い、どこかで答えを求めていたことを愚者にも聞かれ、久遠は自然とその答えが見つかるかもしれないと思った。
本当に見つかるかどうかの保証があるわけではない。ただ漠然と、かもしれない、と思っただけだが、そう思った時には首を縦に振っていた。
愚者は普段の暗さとは裏腹に、明るい笑みを浮かべて、久遠と一緒に街中を歩いていた。久遠の生きる理由を求めて、どこかに向かっているつもりだとは思うのだが、久遠自身で目的地があるわけではない。
これはただの放浪に等しい。
「他人の生きる理由なんて、これまで考えたこともなかったから、どういうものか気になるよ」
久遠の隣で愚者が何気なく呟いた一言に、その隣で愚者を先導するはずの久遠が共感した。
確かに他人の生きる理由など普段は気にすることがない。というよりも、本来は気にしないものなのだろう。それを気にしている愚者が特殊で、それを考える久遠も特殊なのだ。
「どこに向かっているの?」
そう言われ、久遠は口籠った。目的地がないとは言えない。何とか考えてみようとは思うが、今の久遠に何かに興味を持てるだけの余裕はない。
強いて言うなら、最近の変化の中に皇帝や愚者との出逢いはあるが、それを生きる理由と語るほどの重さはそこになく、その重さを押しつける度胸もない。
そう思っていたら、久遠は今の今まで気づかなかった根本的な疑問に気づいた。
「そういえば、貴方は何という名前なの?まだ聞いてなかった」
「名前?」
「名前。あるでしょう?」
「名前はナ…」
そこまで口を開いて、そこで愚者は動きを止めた。言いかけた言葉を飲み込み、久遠を丸くした目でまっすぐに見ていた。
この時の久遠は愚者が何を考えているのか分からなかったと思うが、愚者は自身の名前を急遽考えていた。
普段の呼び名であるNo.0が人間の中で異質であることくらいは知っていたからだ。
「ゼロ」
咄嗟に口から出た名前がそれだった。
「ゼロ。そうゼロね。私は皇紀久遠。知ってると思うけど、今は皇紀久遠が名前よ」
「うん。それは知ってるよ」
そうして愚者が興味なさげに視線を前に戻し、久遠は少し眉を顰めた。
愚者がどういう人物なのかは十分に理解していたから、その対応にも驚きはなかった。そういう反応だろうと予想くらいはしていた。
しかし、実際に目の当たりにしてみると、本当にこの男は腹立たしいと思わせるものだ。
とても腹立たしく、同時にそれが少しだけ救いのようにも感じる。不干渉であることで生まれる摩擦もあるが、不干渉であることが故に救われる気持ちもある。
特に久遠の中には絶対的に踏み込まれたくない領域があって、そこに不用意に踏み込まれることを極度に嫌っていた。
その点、愚者はそこまで来ることがないから、同じように踏み込んでこない皇帝と一緒に付き合いやすい相手ではあった。もちろん、それ以上に面倒な点も多く、皇帝ほどに友好的な付き合いは難しいと感じているのだが、悪くはない。
悪い手本を思い浮かべれば思い浮かべるほどに、寧ろ、好意すら錯覚しそうなほどだ。
そうして考えていると、何となく、久遠の中で記憶が繋がっていたのだろうか。この国に来てから、数少ない落ちつく場所まで足を運んでいた。
「ここは?」
そう聞かれ、久遠はようやく自分が知らない間に目的地に定めていた建物の前まで来ていることに気づく。
「ここは…」
そこはこの国、唯一の呉服屋だった。
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