花の枯れる未来を断つ(16)
自分の置かれた状況を正確に理解することはなかった。現れたアザラシ頭の人物が何者かも、そのアザラシ頭を見つめるクリスの表情の意味も、檜枝は正確に理解できないまま、ただ傍観していた。
良く分からないことに触れるほどの度胸はない。その空間に入り込んではいけないという感覚も僅かにあった。
それは危機感から来る本能的回避ではなく、自分が踏み込むことで邪魔してはいけないと感じる遠さみたいなものだ。
そこに自分は入れない。自分が入ってはいけない。その思いから一歩離れて、俯瞰的にクリスとアザラシ人間のやり取りを見守るつもりだった。
その思いに変化が現れたのは、その傍観を始めた直後のことだ。アザラシ人間がアクリル板のように透明な板を作り出し、それをクリスに差し向けた瞬間、檜枝の視界を別の映像が支配した。
透明な板がクリスに到着し、クリスの身体が上半身と下半身の分割式に変化する光景だ。景色の大半を赤く彩りながら、二つに分かれるクリスを目撃し、檜枝は動き出さずにいられなかった。
結果的にその行動がクリスを救うことになったが、檜枝は見えた光景を思い出しても、状況の理解ができていなかった。
透明な板が何なのか。アザラシ人間は何者なのか。クリスは何をしようとしているのか。目の前で何が起きているのか。自分は何に巻き込まれたのか。これから何が起きようとしているのか。檜枝は何も分からない。
ただ見たくもない光景は檜枝の意思とは関係なく、檜枝の視界を支配した。
透明な板からクリスを救った直後、クリスが透明な板に手を伸ばし、檜枝はクリスの手が半分になる光景を見た。
触ってはいけない。そう思い、それを声にしたが、咄嗟のことで日本語が出てしまったことも悪かったのかもしれない。
クリスは透明な板に触れ、檜枝が見た光景そのままに、右手の半分を失った。悶え苦しむクリスを助けようと思い、檜枝は慌ててタオルを引っ張ってきたが、それはクリスの助けにならなかったようだ。
クリスに突き飛ばされ、檜枝は廊下に座り込んだ。そこから立ち上がることも忘れ、檜枝はしばらくクリスとアザラシ人間のやり取りを目撃することになった。
何が起きているのか。改めて、しっかりと目の前で起きても分からない。
ただ檜枝が未来を見えるように、特別な力を持つ人は他にもいるらしい。クリスやアザラシ人間もそういう類の存在なのだろう。
それぞれがそれぞれの力をぶつけ合っている。それを戦いと表現するのか、その考えがそもそも欠落した檜枝には分からないことだった。
ただ、このまま力と力をぶつけ合っても良いことは起こらない。直感的に檜枝がそう思ったところのことだ。
クリスがアザラシ人間に殴り飛ばされた。格闘技の知識がない檜枝でも分かるくらいに、鋭い一撃がクリスに入っていた。
大丈夫なのか。その思いと共にさっきの光景が頭を過って、檜枝は嫌な予感に襲われる。
もしかしたら、あの透明な板が再びクリスを襲うかもしれない。檜枝がそう思い、アザラシ人間の動きを見ようとそちらに目を向けた。
アザラシ人間と目が合ったのは、その時だった。アザラシの目を真正面から見たことはなかったが、その時の目はまるで感情の読めないもので、ただのガラス玉を前にしているのと変わらない気持ちだった。
多分、怖かったのだと檜枝は思う。恐怖を感じていたのだと思うが、その恐怖を理解する余裕もなかった。
何が起きるのか。檜枝が考えようとしても、両目は今見えている以上の景色を見せてくれない。
それもそのはずだ。檜枝の見る未来は目の前で起きた衝撃的な景色だけだ。対象に自分が含まれている未来を狙ってみることは難しい。
況してや、自分が殺されるかもしれない未来なら、即死以外の状況にならないと見ることができない。
あの透明な板の様子から、もしも檜枝が狙われたら、即死は免れないだろう。それなら、檜枝がその光景を見ることはない。未来に起きるかは分からない。
それをちゃんと理解したのは、クリスが動き出した後だった。アザラシ人間は意識を檜枝から逸らし、クリスの方に向けていた。クリスとアザラシ人間のぶつかり合いが再び起きた。
その過程で、またアザラシ人間の透明な板がクリスに接近する光景が見えた。檜枝は咄嗟に声を出し、その声出しが再び功を奏したらしく、クリスは寸前のところでアザラシ人間の透明な板を回避していた。
その光景に安堵を覚えながら、移動し始めたクリスを見送った直後のことだ。
ほとんど休む暇なく、檜枝の視界をまた別の景色が支配した。それはアザラシ人間が姿を現し、最初に見た光景と酷似していて、檜枝は咄嗟に叫び声を上げた。
だが、クリスの動きは緩慢だった。その動きでは間に合わない。それは何も知らない檜枝でも分かった。
このままだとクリスは上半身と下半身に分かれて、上半身を地面に落とすことになる。
それが分かってしまったから、檜枝は動き出した。もしくは動き出してしまったと言えるのかもしれない。
ゆっくりと振り返るクリスに向かって、透明な板が飛んでいく。それを受け止めるでもなく、檜枝はクリスの前に飛び込んだ。
次の瞬間、檜枝の身体と透明な板が重なった。
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