死神の毒牙に正義が掛かる(1)

 菊池きくち彦弥ひこや。男はそう名乗った。それが本当の名前かは分からない。ただ男の顔は見たことがあった。


 フクロウカフェ『ミミズク』。あの店の前で暗躍していた幾人かの人物の中に、男もいたはずだ。この場所も考えると、そのことに間違いはないだろう。


 この場所とは言ったが、ここがどこなのか正確に分かっているわけではなかった。開かずのトイレと呼ばれるトイレを通ったが、そこから地下に降り、更に見知らぬ地下施設を歩き回った結果、行きついたこの場所がどの地下に当たるのか分かるほどに器用ではない。


「名前は何ですか?」


 菊池は何度目かの質問をしてきたが、その問いに浦見うらみ十鶴とつると名乗ることはなかった。相手がどれだけの情報を握っているか分からないが、名前を聞いてくるということは名前も知らないのかもしれない。


 もちろん、それくらいは調べたらすぐに分かることで、隠すことに意味はほとんどないと分かるが、与える情報は少しでも少ない方がいいはずだ。

 浦見が誰なのか。そう思わせ、相手に調べさせることで時間を得る。そうしていかないと、浦見はすぐにでも消されてしまう。


 それが記憶だけの話ならいいのだが、命まで至るかもしれないと思うと、浦見は死んでも口を開かなかった。もしくは恐怖で開けないとも言えた。


 浦見が菊池と向かい合っている部屋に重戸えと茉莉まりはいなかった。浦見と一緒にこの場所まで連れてこられたが、その後にどうなっているのかは分からない。恐らく、浦見と同じように質問されているのだろうが、重戸が何を話しているのかは分からない。


 ただ重戸なら、何も話さないことくらいは分かった。それを利用して揺さ振ってくるかもしれないが、その時にも重戸は話していないと思えるくらいに、そのことははっきりとしている。重戸のことをそれくらいに信用している。


 ただ重戸が同じ揺さ振られ方をした時に、全く話さないかと聞かれると、そこは微妙だった。浦見は重戸のことを信頼しているが、それは一方的な信頼であり、重戸から信頼されているかと聞かれると、されていない確率の方が高い。


「職業は何ですか?」


 流石に埒が明かないと思ったのか、菊池が質問を変えてきた。これも調べたら分かることであり、隠すことに意味がないと浦見は思うが、それでも時間が稼げるならと思い、口を噤むことにする。

 一切浦見が話さないことに菊池がどう思っているのか表情からは読み取れないが、この質問でも意味がないとは悟ったようだ。


「何を調べているんですか?」


 今度はそのように聞いてきた。さっきまでの質問との違いから、浦見はその言葉をちゃんと理解するまでに時間がかかり、理解したと同時に話しそうになったが、ここも何とか耐えることに成功した。菊池の言葉に驚いていたが、それも何とか表情に出さずに済んだと思う。


 それから、菊池はピタリと黙り、しばらく待ってから、部屋の外に顔を出した。何かを話しているようだが、ほとんど聞こえないほどに小声で、何を話しているかは分からない。


 ただ部屋の外に出ることはなく、軽く話し終えると部屋の中に戻ってきて、再び浦見と向かい合い始めた。


 これがいつまで続くのだろうかと浦見は思ってから、ふと例の少年を知った時の写真を思い出した。あの写真を撮った時、この組織の人間が近隣住民に話を聞きながら、その記憶を消していた。

 それと今、浦見が置かれた状況を照らし合わせると、記憶を消すのにどれだけの情報を持っているのか、その判断が必要なのかもしれない。例えば、特定の時間の記憶を消すのではなく、特定の情報に結びついた記憶を消すのかもしれない。


 もしそうなら、浦見が何を知っているかで、どう記憶を消すのか変わってくる。そのための判断をしようとしているのかもしれない。


 そう考えてから、浦見はさっきの菊池の言葉や自分を捕まえた例の少年の言葉を思い出す。そのどちらも、浦見が調べていることを分かっているような発言をしている。もし分かっているなら、何を知っているかも漠然と把握しているはずで、わざわざ浦見に聞いてから記憶を消す必要もないはずだ。


 なら、これは一体何の時間だ。そう思った浦見が不思議そうな顔をした瞬間、部屋の扉がノックされた。その音に浦見が驚き、ビクンと反応した前で、菊池が少し笑いながら、扉の方に歩いていく。

 笑われた。そのことに浦見が恥ずかしがっていると、部屋の外にいる誰かと話した菊池が浦見に声をかけてくる。


「荷物をまとめてください。帰っていいそうです」

「……え?」


 それはあまりに突然の解放宣言だった。

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