熊は風の始まりを語る(15)

 愚者は店内を指差し、久遠にここかと確認しながら、その中に入ろうとした。その手を掴み、久遠は小さくかぶりを振ってから、店の前を指差した。


「違う。ここよ」

「え?中には入らないの?」

「入らないの。入っても仕方ないから」


 そう言ってから、久遠は呉服屋を見上げていた。


「見たことのないものだ。あれは衣服かな?」

「そう。私の故郷の服」

「へぇー。じゃあ、君もあれを着ていたの?」

「ううん。一度も着たことがないわ」


 流石に和服を日常的に着ることはない。特別な時になら、着ることもあったかもしれないが、その特別な時を迎える前に、久遠はこの国に来てしまった。これからも着ることはないだろう。


「え?なら、ここが本当にそうなの?着たことのないものでも、それが生きる理由になるの?」

「それは…分からないけど。着たことないから、思い出がないってわけでもないから。ここに来ると懐かしさは覚えるの。お祖母ちゃんとか良く来てたし」


 心なしか鼻孔を擽る匂いを感じて、久遠の記憶は自分が今よりも幾分幼かった時代に遡る。祖母の香りがぐちゃぐちゃになって、一切の落ちつきを失った久遠の心に平穏を与えてくれる。


「そうかもしれない。生きる理由か。こういうことかもね」

「どういうこと?」

「何となく、落ちつくってこと。重りだと思ってたけど、その重さが変に浮ついた気持ちを落ちつかせて、現実に引き戻してくれる。その先が生きている場所なのかもしれない」

「落ちつかせるもの…」

「ゼロにはないの?落ちつく場所か物とか」

「落ちつく、か…」


 愚者は目の前の呉服屋の看板を見上げて、何かをゆっくりと考え込んでいた。その横顔を隣で見つめながら、久遠は何となく、愚者が面倒だと感じても逢っている理由がここにあるのかもしれないと思った。


「落ちつく…と思ったことがないかもしれない…」

「一瞬も?ずっと落ちつかない気持ちでいるの?」

「前を歩いている人が急に振り返って、まっすぐに顔を指差してくる。そういう唐突な恐怖に怯えている気がするね」

「何それ?」


 久遠の事情を愚者が知らないように、愚者の事情を知らない久遠はその言葉の意味が分からなかった。

 愚者は人型であって人間ではない。その違いをいつ誰に指摘されるかと怯えているのだが、その恐怖は当事者である人型達にしか伝わらない。


「ああ、でも、唐突な恐怖は少し分かるかも」

「そうなの?」

「貴方みたいに自由に生きていると分からないかもしれないけど、足元を他人に任せてしまうと、そこがいつ崩れるか分からないの」


 生きる理由が理解できなかったのは、これまでそれを他人に委ねてきたからだ。

 それが非常識であると分かっていても、そうするしか久遠には道が残されていない。自由には犠牲が常につきまとうものだ。


「別に自由じゃないよ。いつだって縛られて生きている」

「それは本当に縛られたことがないからそう思うだけ。本当に縛られたら、きっとあの時は自由だったって思うから」

「もしそうだとしたら…そうならないように祈ろうかな」


 小さく気だるげに笑う愚者の横顔を見ながら、久遠は愚者と初めて対面した時のことを思い出した。


 あの時、久遠は愚者を暗いと思った。暗いと思って、暗いと怒った。


 あれは皇帝に呼び出されたその場所でも、自分に目が向けられないことに対する憤りだと、久遠の中でどこか簡潔に理由をまとめていたのだが、恐らく、本当のところは違った。


 本当は愚者の暗さに自分の気持ちが重なり、久遠は端的に羨ましいと感じたのだ。


 久遠は暗くなれない。どこまでも悲しいと思う気持ちを表現することすら許されていない。

 その自由が妬ましく、だから、愚者の態度が許せなかった。その自由さがあって、自分と同じ土俵にいると言わんばかりの表情をしていることが信じられなかった。


 皇帝が距離を測ってくれる相手だとしたら、愚者は測るまでもなく、久遠の心の隙間に立っている。それは恐らく、二人の心情が同じ場所にあるからだ。

 その穏やかさが気になって、久遠は愚者の無茶や奇行を完全に否定することができなかった。


 それは自分が本当は外に出したい気持ちと同じだから、否定してはいけないと心の奥底で感じていた。


 だから、久遠はつい愚者と逢っている。


 改めて理解したことを少し伝えたい気持ちになり、久遠は口を開きかけたが、それを伝えることは少し癪だとも感じたので、結局、言葉は発することなく飲み込んでしまう。


 それに気づかない愚者を面白く思い、久遠は自分が生きる理由を再認識した。

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