熊は風の始まりを語る(13)
ドレスを渡された時はそれがプレゼントだと思った。この国に来た直後のことで、これが友好の証なのかと、久遠は最初、愚かにも勘違いした。
それが間違いだと気づいたのは、ドレスに着替えた後のことだ。久遠は自分の荷物の大半が消えていることに気づいた。
それもただの荷物ではなく、消えた荷物の多くは久遠が故郷から持ってきた衣服の類だった。
その荷物がどこに行ったのかと聞いたら、平然とした態度でこう言われた。
「ここに暮らすからには、ああいう服はいらないよね」
その一方的な言い分に久遠は何も言い返せなかった。
普段の久遠なら、激怒して渡されたドレスを投げつけていたところだが、今の久遠にはそれだけの立場がなかった。
ゆっくりと俯き、小さな声で「はい」と答える以外に選択肢はなかった。
久遠の扱いの酷さは他にも続いた。
故郷を離れて訪れた遠い異国の地だ。久遠にとって生活の全てが慣れないものだが、慣れていないということを許してくれる場ではなかった。
話し慣れない言葉も、常に正確な発音と言葉遣いを求められ、久遠は何かを話す度に怒られていた。
慣れない国の慣れない言語だ。たった一言でも話すために頭の中で意味を整理し、その状況に適した言葉をなるべく選ばなければいけない。それに加えて、正確な発音を求められても、元々の言葉の違いから簡単にできるはずもなく、それを求められることは理不尽でしかなかった。
ただ久遠はそれも耐えなければいけなかった。そのために久遠はこの国に来たのだから、と盲目的になって、日々を暮らしていかなければいけない。
そんな日々が続いて、心が摩耗し、元の形も分からなくなった頃に、ようやく久遠は初めて言葉を話して怒られない瞬間と立ち会った。
自分でもうまく発音できたと思い、内心で喜びかけた久遠に向かって、簡潔にこう言葉が投げかけられた。
「ああ、そう」
確かに複雑な返事を求める内容ではなかった。簡潔な返事にまとめられて仕方ないとは思う。褒められたいと思っていたわけでもないので、その部分を褒めてもらう必要もない。
だが、その一言で何となく、久遠は今の立ち位置が今後の人生における自分の立ち位置と同じなのだと気づいてしまった。
この国に来た理由を考えれば、それは既に分かり切っていたことのはずだが、改めて目の前に突きつけられ、それを耐えられるほどの強さを摩耗した久遠の心は持っていなかった。
もういいや。端的にそう思って、久遠は家を出ていた。明確な目的地があるわけではないが、外に出た目的は確かに心の中にあった。
死のう。それが楽だ。そう思っていたことは間違いない。
そして、久遠は実際にそのための場所を探していたのだと思う。
ふらふらと街中を歩きながら、誰の目にも止まらない場所を探し続け、何となく、目立つという理由だけで視線を向けたのだ。
そこに赤い屋根のパン屋があった。その店の中に並べられた故郷で見た覚えのあるパンを見つけた。
それを見た瞬間、久遠の頭の中で家族の顔が思い浮かんだ。
自然と涙が零れ、その場に崩れ落ちて、久遠は泣き始める。懐かしさも確かにそこにはあったのだが、それ以上に久遠は思い出してしまった。
自分が死ねないという事実に。自分は死ぬことができない。ここで死んでしまったら、それは故郷に残した家族を道連れにするということだ。
どれだけ苦しくても、どれだけ救いがなくても、自分はひたすらにこの地で、あの家で生きなければいけない。
それを思い出し、久遠はそこからしばらく、その当たり前のことを忘れないように、そのパン屋に通い始めた。
そして、気づいたら、その時のパンがなくなっていたが、今もそのパン屋に足を運ぶ時間ができ、久遠はいつの間にか、頭の中からあの日の死に対する決意が消えていた。
(そういえば、私はどうして今も生きているのだろう?)
もちろん、頭の中では家族のことがあると分かり切っているのだが、擦り減った心はそれだけの思いでは繋ぎ止められないはずだ。いつか天秤が傾いてもおかしくはなかった。
それなのに、今日まで久遠はそのことを忘れていた。
その理由を考えていると、不意に久遠は手を握られ、意識が現実に引き戻された。
顔を上げると、愚者が久遠の手を取り、久遠をまっすぐに見つめていた。純粋だが、感情の読めない不思議な目だ。
「何?」
「君が死なない理由は何なの?」
「え?」
「生きる理由が何かにあるの?もしあるなら、それを教えて欲しいな。見せてくれても構わない」
「生きる理由…」
久遠は小さく呟き、それは自分が教えて欲しいと口にしかけた。
ただそれを言うより先に唇を固く結び、久遠は自然と首を縦に振っていた。
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