鯨は水の中で眠っても死なない(3)

 中央にクジラが横たわった部屋の中には、既に数人の人がいた。クジラの体表を確認するように見つめながら、手元の紙に何かを書き記している。その様子に軽く気づくまで、幸善達は目の前のクジラの姿に目を奪われていた。


 部屋の入口からクジラまで、少し距離があったのだが、その距離があっても、クジラの端から端まで正確に見ることはできなかった。もう少し後ろに下がらないといけないが、そうすると部屋から出てしまうので、クジラの全貌を見ることができない。

 クジラの尾びれ付近の壁は、シャッターのようになっていた。普通に考えて、このクジラを人の出入り口から部屋の中に入れることはできない。あのシャッターを通じて、この部屋の中に持ち込んだのだろうと幸善は思う。


「あの人達と同じことをするんですか?」


 幸善も見つけた先にいた人達を指差しながら、牛梁がそのように聞いていた。冲方は頷き、部屋の中にいた人達が持っていた物と同じ紙を渡してくる。


「これは?」

「これから、変わった部分がないか見て欲しいんだけど、変わった部分って言っても、普段を知らないと分からないよね?だから、気になるポイントがあったら、片っ端からそこに書いて欲しいんだよ」

「何でもいいんですか?」

「何でもいいよ。とにかく、目につく物があったら何でも。関係あるかどうかは後で判断するから」


 幸善達四人に紙を渡し終えると、冲方はクジラの頭の方向を指差した。


「私達は頭付近の担当だから、そこを見るよ」


 幸善達は冲方に連れられて、クジラの頭付近まで移動する。離れて見ていた段階から思っていたことだが、こうして近づいてみると、改めて大きいと分かる。


「それじゃあ、半分に分かれようか。半分は向こう側に回ろう」

「私はこっち。啓吾もこっち」

「え?」

「分かった。牛梁君と頼堂君はついてきて」

「え?対応が早くないですか?」


 驚く佐崎とは裏腹に、幸善達は一瞥もくれずに移動し始めていた。杉咲の返答は予想通りだった。言う言葉が「こっち」なのか、「あっち」なのか分からないくらいで、佐崎が一緒になることは最初からの決定事項だ。


 クジラの反対側に移動した幸善達は、その場所の狭さに驚いた。一応のスペースはあるのだが、本当に気持ちばかりの隙間で、人がすれ違おうとしたら苦労するくらいの隙間だ。


「これ、寝返り打ったら死にません?」


 幸善の質問に冲方は声を出して笑った。


「寝返り打つ方が死んでるから大丈夫だよ」

「いや、言い方」


 それくらいは分かっていて聞いたことなのだが、もう少しマシな言い方をすると思っていた幸善は、冲方の倫理的に気になる言い方に眉を顰めた。


「それよりも、仕事を進めよう。向こう側はもう始めているはずだしね」


 冲方に言われ、幸善と牛梁は渡された紙を持った。変わった部分だけでなく、気になる部分を見つけたら、何でもいいから、この紙に書き並べていく。冲方に言われたことを思い出しながら、幸善はクジラの体表を眺めていく。

 クジラの皮膚に小さな傷は複数見られた。ただそれらは陸に打ち上げられた際に負った傷の可能性が高く、そのどれが関係するのか幸善には分からない。片っ端から傷のある場所を書き留めていくのだが、その傷も細かくチェックが大変だった。


 それを順番に進めていく中で、幸善はクジラの口に近づく。そこで幸善は思い出し、クジラの目にも目を向けた。


「冲方さん。この瞼の内側とか、口の中も調べるんですか?」

「あ、いや、そういう場所は後で細かく調べられるはずだからいいはずだよ」

「ああ、そうなんですね」


 それなら、口の周りだけを見ればいいのかと思った幸善が、そこで口の中から何かがはみ出していることに気づいた。何かと思って、口元に顔を近づけてみると、それは布のように見えた。


「何だ…?これ…?」


 軽く布を引っ張ってみるが、布は完全に口の中にあるようで、引っ張り出すことができない。これは何かあるのではないかと思い、幸善は冲方を呼んだ。


「冲方さん。ここに布みたいなのがあるんですけど」

「布?」


 不思議そうな顔をした冲方と、幸善の声を聞きつけた牛梁が近づいてきた。幸善と一緒に口から軽く飛び出した布を見て、怪訝げに首を傾げている。


「これは何だろうね?」

「引っ張れないのか?」

「口の中に引っ掛かってるみたいで、無理なんですよね」

「少し口を開けてみますか?」


 牛梁に聞かれた冲方が頷き、二人は口を持ち上げた。その隙に幸善が飛び出していた布を引っ張った。


 それはだった。


「え?服?」

「何ですかね、これは?」

「人を食べたってことですか?」

「いや、クジラが人間を食べる話は聞いたことないし、食べたとしても、服だけが口の中に残るなんてあり得ないよ」

「もう少し見てみますか?」


 牛梁の提案を受け、冲方と牛梁が再び口を持ち上げた隙に、幸善は口の中に手を突っ込んだ。少し動かしてみると、また布のような感触を見つける。


「あっ。何かありますね」


 掴んだ布を引っ張ってみると、今度はだった。ご丁寧にベルトまで巻かれている。


「これって…やっぱり、人が食べられたんじゃ…」

「いや、それなら、服だけ残るとかあり得ないよね?仮に肉を消化したとしても、骨が残るはずだよ」

「ああ、確かに。中身が消えたみたいに服が綺麗に残るのは変ですよね」


 幸善は口の中から見つけ出した服を見つめ、冲方や牛梁と一緒に首を傾げた。


「取り敢えず、報告しようか。これで何か分かるのか、少し微妙だけどね」


 そう言われたことで、幸善は渡された紙に、口の中から服が見つかったことを書き留めた。

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