憎悪は愛によって土に還る(13)

 事前予約を済ませていたように、姿を消したザ・フライはさっきまで相亀の立っていた場所に現れた。移動先を自由に選べないわけではなく、そこから相亀が移動するとイメージできなかったのだろう。相亀自身がそうだから、ザ・フライにできるはずもない。


 足を上げた体勢のまま、混乱したように固まるザ・フライを尻目に、相亀は無理矢理身体を引っ張り起こされる。


「こっち!」


 その声と一緒に相亀は手を引かれ、導かれるままに走り出した。


 酸欠状態から回復したとはいえ、相亀の脳は万全な状態ではなかった。稼働し始めたばかりでまだ温まっていない。


 そこに通常の相亀の脳でも処理し切れない情報が叩き込まれ、相亀の頭は完全に混乱していた。手を引かれるままに走っているのだが、誰に手を引かれているのかも相亀は分かっていない。


 ザ・フライだけでなく、混乱した客達からも離れ、相亀は近くの階段の前まで連れてこられた。そこで壁に背をつけるように立ち止まり、相亀の手を引いていた人物がザ・フライの動向を窺うように壁から顔を出している。


 その光景をぼんやりと眺めながら、相亀はその人物が誰なのか、まだ分かっていなかった。相亀の思考の端を奪うように、ピタピタと音が響いている。相亀の頭から血が床に落ちているようだ。

 呼吸がうまくできなかった原因は別としても、血を多く失っていることは事実で、相亀の頭は次第に錆びついてきたようだった。


 取り敢えず、視界に侵食してきた血を拭おうと、相亀が額に手を伸ばした瞬間、相亀の手が押さえられ、代わりに何かが額に押しつけられる。

 額を押され、顔を引き上げた相亀の前に、不安そうな顔が飛び込んで、ようやく相亀は誰がそこにいるのか理解した。


「大丈夫!?」


 改めて声を聞けば、それは顔を見るまでもなく、一発で分かるものだった。

 相亀は大きく息を吐き出し、額にハンカチを押しつける手を脇に除けながら、冷めた声を口から漏らす。


「何をしてるんだよ、穂村」


 相亀はザ・フライと戦っている最中だった。そこに割り込んでくることなど、自殺行為にも程がある。一歩間違えれば、穂村は死んでいた。その危険性が分からない穂村ではない。


 どんな理由があったか知らないが、あの場面で割り込んでくることなど許してはいけない。相亀が怒りを見せようとすると、それよりも先に穂村が表情に怒りを滲ませてきた。


「それはこっちの台詞だよ!?」

「………はえ?」


 唐突に返された激情に当てられ、相亀はまとっていた怒りをすっかり吹き飛ばし、情けない声しか出せなかった。

 どうして自分が怒られているのだろうか。相亀は道理の分からない子供のように目をぱちくりさせている。


「こんなにボロボロになって、あんなに無茶をして、何をしてるの!?」

「何って、あのハエと戦って……」

「それであんな無茶をしてたの?私でも分かったよ?相亀君がやっていることが無謀なことくらい」

「仕方ないだろう?あいつは椋居に怪我を負わせた奴なんだぞ?そいつを倒すためにはあれしか手段がないんだ」


 今の自分には力がないから。言いそうになった言葉を噛み締めて、相亀は悔しさを顔に滲ませる。それを見た穂村がようやく顔から少し怒りを消して、優しさを見せてきた。


「だからだよ。椋居君に怪我を負わせた相手だから、相亀君が倒れちゃダメなんだよ。ちゃんと元気な姿で、椋居君にもう大丈夫だって言えるようにしないと」

「それができたら……そうしてた……それにそれだけの資格が俺にはない」


 椋居に怪我を負わせたのはザ・フライだ。


 では、ザ・フライが全ての元凶かと言えば、そう言い切れないと相亀は思っている。


 あの場所に椋居を連れて行ったのは自分で、あの場所にザ・フライを呼び寄せたのも自分だ。全ての元凶は自分にあると言い換えることもできる。


「俺にできることはこれくらいしかない。俺一人で済むなら、それをやらない理由はない」


 椋居に起きたことがこれ以上広がるくらいなら、自分の身体の一つや二つは安いものだ。


 そう言いたかったが、穂村は相亀が最後まで言い切る前に大きくかぶりを振った。


「ダメだよ。復讐とか、原因とか、そういうことはどうでも良くて、相亀君がそこにいることを望んでいる人がたくさんいるんだよ。椋居君だってそうだよ。相亀君のお父さんもそうでしょう?私だって……そういう人の気持ちを裏切らないでよ……」


 穂村が堪え切れなかったように涙を流し、相亀の胸に小さな拳を押し当ててきた。精一杯の抗議はザ・フライの拳と比べたら、とても弱々しかったが、それでも相亀にはとても痛く響いた。


 頭の中では分かっていることだ。分かっていることだが、それを持っていたら、ザ・フライには勝てない。今の自分にはそれだけの力がない。


 だから、相亀はその考えを押し殺して、自分を犠牲にすることにした。


 それを目の前で止める人が現れて、相亀は消し去ったはずの迷いに飲まれていた。


 自分はどうしたらいい。そのように考えようとするが、相亀の思考を妨げるように、再びピタピタという音が響き渡る。まだ血が垂れているようだ。


 そう思ってから、相亀はおかしいと思った。額から流れる血はさっき穂村が拭いてくれたばかりだ。まだ垂れるほどに流れてはいない。

 実際、床には血の垂れた跡があるが、今はそこに血が落ちていなかった。


 それなのに、ピタピタという音は響き渡っている。この音は一体何だろうかと考えながら、相亀は耳を澄ませた。

 どうやら、音は階段の方から響いているらしい。そのように気づいた相亀が階段に目を向ける。


 その時、階段の方から相亀達のいる一階に何かが飛んできた。とても小さく、一瞬では何かも分からないものだ。それが相亀の近くに着地し、そこで音を鳴らした。


「ゲコッ」

「あっ」


 それは一匹のだった。

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