許可も取らずに食って帰る(8)
豚舎の中は細かく柵で区切られ、全部で八つのスペースに分かれていた。本来なら、それら一つ一つのスペースで、決まった数の豚を飼育していたはずなのだが、今はそこに豚がほとんど入っておらず、酷く殺風景なものになっている。
その八つのスペースの中で豚が確認できるスペースは二つだけだった。一つは豚舎の隅にあるスペースで、その中では豚が休むように寝転がっている。
もう一つは入って直後の入口付近にあり、そこでは美藤と皐月が豚の背中を撫でている最中だった。
「ねえねえ、仁海ちゃん。この子って、何て名前かな?」
浅河が豚舎の中に入ってきたことを確認すると、美藤が豚の背中を撫でながら、そのように聞いてきた。
浅河は豚舎の中を見回してみるが、豚の名前を確認できるものは何もない。
そう思ってから、ふと当たり前のことを思い出し、浅河は二人の隣に移動してから、かぶりを振った。二人と同じように豚の背に手を伸ばす。
「豚って基本的に食肉用でしょう?名前とかつけないんじゃない?」
「え?そうなの?この子も食べられるの?」
「多分。そういう授業なんじゃない?」
浅河の言葉に美藤が目を潤ませ、目の前の豚を慈しむように背中を撫でる中、その隣で皐月が同じように豚を撫でながら、表情一つ変えずに呟いた。
「ハムカツ……」
「え?何?あんた、もう食べようとしてるの?」
今の話の流れから、まさか、一瞬で加工先の更に先まで想像したのかと思い、浅河だけでなく、美藤までもが恐れ戦いていた。皐月は変わっていると思っていたが、そこまでの狂気性を秘めているとは思いもしなかった。
そう思っていたら、それを否定するように、無表情のままの皐月がかぶりを振った。
「思い出しただけ。豚のハムカツ」
「え……?この状況で、ハムカツを思い出したの……?」
「うん」
それはそれでどうなのかと思う浅河の前で、皐月は豚の背を撫でながら、少し目線を上にあげた。
「この子よりも大きかった。この豚舎の半分くらい」
「え?ハムカツが?」
「うん。そういう妖術だって」
「ハムカツの?」
「うん」
浅河と美藤は皐月が何を言っているのか理解できず、きょとんとしたまま顔を見合わせ、揃って小首を傾げた。
動物の妖怪に植物の妖怪までは知っているが、食べ物の妖怪はこれまでに聞いたことがない。それもハムカツという加工食品の妖怪など、姿形が全く想像できない。
皐月は一体、何を見たのだろうか、とお互いに言葉を交わすことなく、目線だけで会話する浅河と美藤の後ろで、一人だけ他のスペースを調べていた有間が近づいてきた。
「三人共、何か見つかった?」
「いや、豚を撫でてただけ」
「沙雪ちゃんも撫でてみる?」
「いや、私は大丈夫。それよりも、調査の方を進めないと、時間制限があるから」
「時間制限?」
「ここはあくまで学校だから、いられる時間に限りがあるんだよ」
奇隠の特権があれば、大抵のことは何とでもなるのだが、その特権をどこまで使うかは考えなければいけないところだ。何とでもなる特権だからこそ、切る瞬間は選ばないといけない。
そして、今回はそういう時ではないと奇隠が判断したらしく、直接的な調査ができる以外、制限は普段ある制限と変わりがないらしい。
「それなら、他のぶ……場所も見てみようよ」
そう言いながら、美藤は立ち上がって、「バイバイ」と言いながら、再び豚の背を撫でていた。明らかに願望が隠せていなかったが、それを指摘する浅河でもなければ、有間も指摘する性格ではない。
美藤が漏らしてしまったことに、誰かが触れることもなく、浅河達はその場所を離れ、他の豚が飼育されていた場所を見てみることにした。
そこで豚が襲われたと聞いていたように、豚のいないスペースの中には、他では見られない特徴的な染みが残されている。襲われたという話を聞いていなくても、見た人物が仙人でなくても、その染みが血痕であることは分かるだろう。
それを浅河が確認し、その場所に何か他にないかと見回している後ろで、美藤と皐月が他のスペースに見向きもせずに、豚舎の隅に走っていった。
入口で一通り見回したので分かっていることだが、その先にはもう一匹の豚がいるはずだ。
「沙雪ちゃん。あの二人は真面に探す気がないよ」
「えーと……困ったね」
そう言って苦笑いする有間を見てから、浅河は二人の跡を追いかけるように、豚舎の隅に向かっていった。
目的はもちろん決まっている。もう一匹の豚を見に行った美藤と皐月を注意するわけではなく、二人と一緒に豚を見るためだ。
「そっちの豚は……」
どうなのか、浅河が聞こうとする前に、浅河はそこにいる美藤の表情がおかしいことに気がついた。美藤だけではない。皐月もさっきまでの無表情が変に強張っている。
「どうしたの?」
思わずそう声をかけ、浅河が美藤達の隣に立った瞬間、浅河はそのスペースの異常さにすぐ気づいた。
豚は確かにいた。確かにいたが、寝転んで休んでいるように見えていた豚は、実際に寝転んで休んでいるわけではなく、その体勢にしかなれない状態になっていた。
片腹は抉れ、足は一本消え、地面には赤い小さな川が生まれている。
その光景を見ても猶、その豚が生きていると思うほどに、浅河達の頭はおめでたくはない。
それに何より、その豚の奥、その場所で蠢く影に気づいたら、そこから目を離すことはできなかった。
既に話には聞いていたから、浅河達はそれが何なのか理解できないわけではない。
シルエットこそ人間と同じだが、頭から胴部にかけては特定の動物と同じ特徴を持っている、擬似人型。
それも目の前にいる姿は、既に一度、奇隠で確認されたものだった。それを思い出し、浅河が小さく呟く。
「ザ・タイガー……」
その声に反応し、豚の奥でトラの頭がこちらを向いた。
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