憧れよりも恋を重視する(34)

 妖気の反応がQ支部内から完全に消え、厳戒態勢は順次解かれていった。


 以前、11番目の男ジャックの侵入を許してしまった際は、多くの仙人が犠牲となる被害が出たのだが、今回の人型は隠密行動を取ったのもあってか、その被害が大きく押さえられていた。


 葉様や渦良のように直接戦闘をした者は怪我を負ったが、後遺症が残るほどに大きな怪我でもなく、一時的に動けなくなっていた佐崎や杉咲も、しばらくしたら難なく動けるほどに回復していた。


 それ以外の仙人の多くはただ眠らされていただけで、運び込まれた病室で目覚め、何の影響も出ていないことを確認すると、片っ端から追い出されるように退院していった。


 その眠りから目覚めた仙人の一人が、未だベッドに腰かけたまま、ぼうっと考え込んでいる様子だった。


 その病室の中に入ろうとしてから、少し戸惑い、覚悟を決めてから、ドアをノックして自身の存在を示す。

 その音に座っていたその人物は振り返り、軽く会釈をしてきた。その表情に言葉を失いながら、鬼山も軽く頭を下げた。


「調子はどうだ?」


 そのように声をかけながら、ベッドの隣まで移動した。ベッドの上では俯き、隣にやってくる鬼山を一瞬も見ることなく、「大丈夫です…」と消え入りそうな声を、軽石が漏らした。


 その声に少し困りながら、鬼山は置かれていたパイプ椅子を広げて、そのベッドの隣に腰を下ろした。手には一応の見舞いの品として果物を持ってきたが、今の軽石に見せる場面ではない。


「事情は聞きました…何が起こったのかも…」


 どのように話し始めるのか悩んでいると、先に軽石が口を開いた。


 今回の一件の間、軽石は最初から最後まで眠りの中にいた。その時に起きたことを実際には見ていないはずだ。

 そして、それが問題であることも分かっているのだろう。


「事情の説明だけか?」

「はい…何が起きたのか…どういう被害があったのか…それだけです…」

「そうか。なら、俺からいくつか質問したい。構わないか?」


 軽石が軽く頭を下げ、頷いたことが分かった。鬼山は少し悩んでから、頭の中に思い浮かべた言葉を口にしていく。


「お前の…恋路泉太郎とはどこであった?」

「コンビニです…そこで声をかけられました…」

「では、声をかけられるまでの間で、奇隠の話をどこかでした記憶は?」

「ありません…ですが、他の同僚の人と外で話すこと自体はあったので、その際に奇隠の仙人であると知られた可能性はあります…」

「今日に至るまでの間で、自分から話した覚えは?」

「ありません…」


 軽石の性格は良く知っている。仮に浮かれていたとしても、その辺りの線引きはできるはずだ。鬼山は本当の意味で軽石が情報を漏らしている可能性を疑っているわけではなかった。


「そうか。なら、形式だけの質問は終わりだ。悪かったな、嫌なことを聞いて。今日はゆっくり休んでくれ。この部屋を使ってもらって構わない」


 これ以上、思い出したくないことを思い出させる必要もない。そのように思い、鬼山が病室から立ち去ろうとした。


「あの…その前に一つ、よろしいでしょうか…?」


 だが、鬼山が立ち上がった直後、軽石がそのように声をかけてきた。パイプ椅子の背もたれ部分を手で掴み、折り畳もうとしている最中のことだった。


「何だ?」

「これを受け取ってくれますか…?」


 そう言いながら、軽石が差し出してきた物は辞表だった。


「辞めたいのか?」

「はい…お願いします…」

「だが、今回の一件は不可抗力だ。減俸等の処分自体はあるだろうが、クビになるほどではないはずだ」

「分かっています…被害が押さえられたことからも、特別重い処分が下されることはないと想像がつきます…」

「なら…」

「だからこそ、自分で書いたんです…」


 手に持った辞表を鬼山に押しつけながら、ゆっくりと顔を上げた軽石の目には、涙が一杯に溜まっていた。ゆっくりと頬を伝った涙の一粒が、シーツの上にぽたりと落ちている。


「すみません…勝手なことを言っているとは良く分かっています…でも、これ以上、ここで働く自分を…私はどうしても、許せないんです…!」


 軽石が静かに感情を吐き出すように頭を振り、目から涙が雨のようにシーツに落ちる。その光景を眺めながら、鬼山は押しつけられた辞表を掴んだ。


「人型をここに入れたことに、そこまで責任を覚えているのか?」

「それもあります…でも、それだけではありません…」

「なら、何を…?」

「私はここに人型を連れてきたことで…飛鳥さんを…傷つけてしまったんです…」


 戦闘に関わった葉様や渦良達を除き、それ以外の被害の多くは眠らされただけだった。


 ただその中にも例外がいて、その例外が飛鳥だった。


 最初に人型の侵入を確認し、警報を鳴らした飛鳥の怪我は、戦闘に参加した佐崎や杉咲よりも重いものだった。後遺症が残るほどではないが、しばらくは治療が必要な怪我だ。


「自分の失態で、飛鳥さんを巻き込んでしまった…そのことを考えれば考えるほどに…私はここにいる自分が嫌になるんです…平気な顔で、飛鳥さんと一緒に働く自分が許せないんです…」

「それで辞めたいと…」

「お願いします…」


 小さく俯くように頭を下げる軽石を前にして、鬼山は掴んだ辞表を軽石の手から完全に受け取った。


「辞めるかどうかは個人の意思だ。特にこの仕事はその特異性からも、それを止めることはできない。これは受け取ろう…」


 そう答え、辞表を仕舞った鬼山に向かって、軽石が小さくお礼の言葉を口にしてきた。


 辞める仙人は何人も見てきたが、この仕事はその内容から辞める理由が自主退職以外の場合が非常に多い。

 五体満足で辞められる。それは非常に幸せなことだ。鬼山はそう思い、前向きに考えようとする。


「手続きに関しては後で詳細を連絡する。今日はこのまま…」

「あの…それともう一つ…辞める際にお願いしたいことがあるんです…」

「何だ?」


 そう言ってから、顔を上げた軽石が軽く笑みを浮かべていることに気づき、鬼山はまさかと思った。


「退職処置をお願いできますか?」

「本気か…?」


 退職処置とは、奇隠という特殊な職業を辞める際に実施される特別な処置のことだ。退職する仙人の希望があって実施されるもので、基本的には怪我を負って退職せざるを得なくなった仙人が、その後の責任感や後悔をなくすために施されることが多い。


 端的に説明すると、記憶の改竄である。


「退職処置を施すと、奇隠での記憶は全て消える。その後、復職する道もなくなる。それを理解して、希望するのか?」

「はい、もちろんです…覚えておくことが辛いんです…もう…飛鳥さんを傷つけたことも…好きになった人が人型だった事実も…全部…全部…もう壊れそうなくらい辛いんです…」


 とても小さく、か細く、ごめんなさいと呟かれた言葉が、涙と一緒にシーツに吸い込まれた。その声を聞き、鬼山にかけられる言葉は何もなかった。


 仙人は強さを求められる。それは肉体的な強さであり、精神的な強さでもある。

 そうでないと、どこかで何かの拍子に折れてしまうからだ。仙人はそれが起きやすい職業だからだ。


 そして、軽石にはその強さが足りなかった。

 だから、飛鳥に憧れ、飛鳥のようになりたいと願っていたのだろう。


 その弱さを語るだけの言葉が鬼山にはない。鬼山には許されていないとも言えるだろう。

 だって、鬼山は必要な強さを持っている人だから。

 軽石のその涙を止める言葉も、覚悟を否定する言葉も、鬼山には最初から与えられていなかった。


「分かった。準備しよう。その前に逢いたい奴には逢っておけ。後悔が残る」

「大丈夫です。全部忘れますから」


 そう言って笑った軽石に向かって、鬼山は「違う」と言うことができなかった。

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