熊は風の始まりを語る(22)

 愚者を二年間も縛りつけた屋敷が倒壊し、約二十四時間が経過した頃、ようやく愚者はその場所から抜け出すことに成功していた。


 瓦礫自体は地下室を押し潰すように降ってきても、風を起こせば吹き飛ばすことができるので問題なかったのだが、拘束具を破壊した後に立ち上がり、歩き出すことが愚者にはうまくできなかった。


 二年間も拘束されていたことに加え、外部と内部の両方から全身を破壊され続けたこともあって、愚者の感覚系統は完全に狂い、立ち上がれるだけの筋力があっても、その状態を維持することが難しかった。


 生まれたばかりの草食動物のように何度も転びながら、立ち上がる練習を繰り返し、ようやく継続して真面に立てるようになるまでに二十時間、そこから屋敷の外に這い出すのに四時間もの時間を費やし、愚者は自由になった。


 そこからの次の行動は屋敷の跡地から這い出したタイミングには決まっていた。


 久遠と逢いたい。この二年間、一度も消えたことのない感情を胸に、愚者は久遠がいると思われる場所を目指す必要があった。


 とはいえ、久遠の家は皇帝がそうだったように愚者も知らない。知っていたら、久遠とリズベット家の関わりも既に把握していたはずで、このような事態になっていなかったかもしれない。


 もう少し、愚者の身体がうまく動いてくれたら、他にいろいろと考える余裕があるのかもしれないが、この時の愚者にはそれだけの思考に費やす余裕がなく、ただひたすらに久遠と逢いたいという意思だけで、人間のいる場所に歩いていた。


 しかし、それもすぐに限界が来た。二十四時間も飲み食いすることなく、ひたすらに屋敷の跡地から抜け出すことだけを考えていた上に、その直前には一気に妖気を失っている。


 その代償として、愚者は次第に戻りかけていた身体の自由を失い、屋敷から数キロメートル移動した場所に倒れ込んだ。

 もう指一本動かすことも難しい。それだけの疲労感と睡魔に押し潰され、愚者はゆっくりと瞼を瞑りかける。


 しかし、ここで瞼を瞑ったら、そこからもう動くことができないことも想像がつく。


 眠ったら死ぬ。久遠と逢う前に死んでしまう。それだけは絶対に嫌だ。


 それだけの気持ちで必死に抗うも、次第に瞼を持ち上げる気力もなくなり、愚者の意識が途絶えかけた瞬間、愚者は何者かの足音を聞いた。


 そこは獣が通っても不思議ではない場所だ。愚者は一瞬、襲われる危険性も考えたが、それを頭の中で議題として挙げるよりも先に愚者の意識が途絶えた。


 次に愚者が意識を取り戻した時、愚者は毛布に包まっていた。何が起きたのか理解できず、重たい身体を起こそうとし、愚者は自分が横になっていることに気づいた。

 そこは見知らぬ部屋の中で、どうやら、愚者はベッドの上に寝かされているらしい。


 そう思った時、その部屋の扉が開き、一人の老婆が入ってきた。


「ああ、良かった。目を覚ましたのかい」


 そう安堵した表情で声をかけられ、愚者は目を丸くした。自分に何が起きたのかと思い、不思議そうに部屋を見回す愚者を見て、温かいスープを用意しながら、その老婆は何があったのか説明を始めてくれた。


 老婆は狩人をする夫と一緒に暮らしているそうなのだが、その夫が突然、愚者を家まで連れ帰ったそうだ。もう少し山奥の方にいたはずの熊が人里に降りてきていると聞き、それを駆除しに行った時に、倒れた愚者を発見したらしい。


 それで老婆は慌てて愚者をベッドに移動させ、目を覚ますように看病に努めたそうだ。口から水を流し込み、ボロボロだった全身には傷の手当てもされていた。


「ここに来てから、二十時間以上も眠っていたんだ。本当に死んでしまうのかと心配したよ」


 そのように柔らかな笑顔で言ってくれる老婆を見て、愚者は声が出なかった。


 この時、愚者は辺り一面の暗闇の中にほんの少しの明かりを見つけたような、少し救われる気分になった。


「名前は言えるかい?どこから来たか分かるかい?」


 そのように聞かれ、いつかのように『ゼロ』と口に出しかけた愚者の頭の中に、久遠の顔が思い浮かんだ。


「あ…」

「うん?どうしたんだい?」


 そこで愚者は自身の名前やお礼の言葉よりも先に、頭の中に浮かんできた消えることのなかった思いを果たすために、自身の中で大きく膨らんでいた疑問を口にした。


「リズベット家って知って…る……?」

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