熊は風の始まりを語る(23)

 リズベット家のことを知っているか。その質問に対する老婆の反応は芳しくなかった。愚者をリズベット家の関係者と誤解したようだが、そのことで嫌な印象を持ったというよりも、どこか愚者に同情しているように見えた。


 その様子が気になり、リズベット家と接触するために屋敷の場所を聞き出そうとした愚者に、その老婆は一つの情報を与えてくれた。


 しかし、それは到底、愚者が信じられる情報などではなく、自分の目で確かめると愚者はリズベット家の屋敷の場所を老婆から聞き出した。


 そして、老夫婦の住む家から歩いて十数キロ。山間にあるリズベット家の屋敷の前まで愚者は来ていた。


 そこで愚者は門の内側に入ることもなく、ただ外側からひたすらに屋敷を眺めていた。その状況を見たら、愚者が信じたくなくても、老婆の話していた情報の真偽は分かる。


 リズベット家は既にその地を離れていた。屋敷は見るからに人気がなく、しばらく放置されていることが分かる荒れ方をしている。特に外側からも見える植物の生え方は、そこに立ち入る人の侵入を拒むようだ。


 どうして、リズベット家がこの地を離れたのか。その理由も老婆は説明してくれていた。


 約一年前にこの地で流行り病が蔓延し、それによって多くの人が亡くなる出来事が起きたらしい。その際にリズベット家でも罹患者があり、アンドリュー・リズベットの母親であるルージュ・リズベットなどが亡くなったそうだ。

 その出来事をきっかけに、リズベット家はこの地での生活を捨て、病気から逃れるように屋敷を離れたらしい。


 自分に苦痛を与えるきっかけを作った人物がこの地からいなくなった。その点は別に良かった。愚者の心に復讐の文字が刻まれたことはまだなかった。


 ただ問題はそれによって、久遠がどこに行ったのかという点だった。


 そして、それも既に老婆から聞いていた愚者は屋敷の状況を目の当たりにして、その門の前で崩れ落ちるように座り込んだ。


 リズベット家にも流行り病が広がった際に、罹患し、最終的に死亡した人物が何人かいる。その代表例がルージュ・リズベットだったのだが、他にも当主であるアンドリューの身近な人物が一人亡くなっていた。


 それがだった。


 その話を思い出し、愚者は頭を抱え込みながら、額を地につけて、必死に呟き始めた。


「嘘だ……嘘だ……嘘だ……嘘だ……嘘だ……」


 愚者は目の前の現実を必死になって否定しようとするが、その話を教えてくれた老婆の優しさを思い出せば思い出すほどに、その希望と対比するように信じたくない絶望が深くなっていく。


 あの老婆が嘘をつくとは思えない。その思いが目の前の現実を確かなものに変えてしまい、愚者の頭が割れそうなほどの悪夢を無理矢理に押しつけてくる。


「死んでない……違う……久遠は…生きてる……」


 自我を保とうと呟いても、顔を上げるとそこに見える屋敷の惨状が、その言葉を否定してきた。


 かぶりを振っても変わらない。愚者は全身が崩れ落ちるように、地面にゆっくりと倒れ込んだ。


 久遠と出逢う前の愚者は常に絶望していた。自身の生に対して絶望し、いかに終わらせるか、その理由を常に求めていた。


 しかし、それも今から考えると、絶望とは名ばかりなものだと気づいてしまった。


 ゆっくりと沈み込むように、愚者の全身を包み込む絶望は、その時に感じていたものとは圧倒的に違う暗さを誇っていた。


 その絶望の受け止め方も分からないまま、その薄暗く、吐き気すら催す気持ち悪さに、愚者は全ての感情を目から溢れさせながら、不意に悟った。


 自分は一体、何を勘違いしていたのだろうか。人型は面こそ人間の物をまとっているが、その内情はただの化け物なのだ。人間と化け物が同じ場所に、同じ形で暮らせるはずがない。


 人間との間に育んだ愛情も、人間との間に生まれたかけがえのない思い出も、全てはただの幻でしかない。


 そうとは気づかずに、その垣根を超えようとした罰が、このどうしようもない絶望だ。


 最初から超えるべきではなかった。人型と人間が交わるべきではなかった。


 この世界に人型など、最初から生まれなければ――そこまで思った瞬間だった。


 愚者の頭の中で、二年間に与えられた全ての苦痛がフラッシュバックし、目から溢れ続けた涙がピタリと止まった。


「違う……」


 小さく呟き、愚者は立ち上がった。


 少数である。それだけの理由で迫害される理由はない。化け物と罵られる必要性はない。


 どうして、向けられる敵意から、蔑視から、自身達が抗ってはいけないのか。世界の隅っこに押しやられる必要はあったのか。

 あの屋敷から自身が抜け出したように、全てを押し潰す力があるのに、どうして、その力と共に姿を隠す必要があるのだろうか。


 愚者は思った。世界に対する絶望も、二年間の全ての苦痛も、人型に与えられた非情なる現実も、久遠という存在を失った喪失感も、全て人間が存在しなければ生まれなかった感情だ。


 そうだ。人間など、最初から存在しなければ良かったのだ。そうしたら、何も感じることはなかった。何も絶望することなどなかった。


「……ハハ……ァハハ…アハハハ!」


 この世界から人間を滅ぼそう。全ての隔たりを生み出した人間を一人残らず消してしまう。


 この瞬間、愚者に生きる理由が生まれた。

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