魔術師も電気羊には触れない(8)

「いらっしゃいませ」


 店の扉が開くとすぐにフィリップが入口に目を向けた。そこには一人の男が立っていた。正確な年齢は分からないが、見た目は若く見える男だ。その男が店の中に入ってくるなり、興味深そうに店内を見回していた。


「どうされましたか?」


 フィリップが不思議そうに聞くと、男がじっとフィリップの顔を見てきた。その視線があまりにまっすぐでフィリップは思わず顔を強張らせてしまう。


「お客様?」


 フィリップの問いに男は軽く首を傾げてから、一言「何でもないよ」と言って、近くのテーブルに座った。店に入ってきてから、その一言を放ち、その席に座るまでの間、その男の表情があまりに変わらなかったことをフィリップは不思議に思った。


 テーブルにつくなり、男は再び店内を見回してから、フィリップに目を向けてくる。その視線は今度もまっすぐで、一瞬も目を逸らす気がないようだが、声は一切かけてこない。

 そのことがあまりに気になるので、フィリップは我慢できずに男に声をかけていた。


「何か御用でしょうか?」

「ここってカフェ?」

「ええ、そうですが?」


 どういう質問だ。看板も見ていなかったのかと聞きたくなったが、その言葉をぐっと堪えて、フィリップは接客モードを崩さない。


「店員は君一人?」

「今はそうですね」

「さっきまでは他に人がいたの?」

「いえ、今日は私だけですが、普段は他にも店員がいますよ」

「ああ、そうなんだ」


 男が不意に首を動かし、置かれたティーカップを見つけるとすぐに指を差してきた。


「そうだ。あれで何か飲み物を入れてよ。おすすめのものでいいから。値段も気にしないよ」

「ああ、はい…」


 普段は考えられない注文方法にフィリップは戸惑いながら、いつものようにティーカップに紅茶を淹れる。その様子を男はじっと眺めながら、時折フィリップの顔色をチェックするように、ティーカップとフィリップを見比べてきた。その視線に困惑している間に紅茶が淹れ終わり、フィリップは男の前までティーカップを運んでいった。


「うん。良い香りだね」

「ありがとうございます」

「君はここで働き始めて長いの?」

「そうですね。もう四、五年になりますね」

「へぇ~、そうなんだ」


 そう言いながら、男が軽く紅茶の匂いを嗅ぎ、一口啜る。男の口に合ったのか、男は少しだけ笑みを浮かべながら、フィリップに頷いてくる。


「うん。美味しいね」

「ありがとうございます」

「これだけの紅茶を四、五年で淹れられるようになったの?」

「以前は他の店でも働いていたので」

「ああ、なるほどね。経験が違うのか…」


 男は紅茶をもう一口啜り、それから興味深そうにフィリップを見てきた。その視線に何を言おうかとフィリップが迷っていると、不意に男が意味の分からないことを聞いてくる。


「君は動物とか好き?」

「はい?」

「動物は好き?」

「まあ…人並みには…」


 男の質問の意図が分からず、フィリップは困惑していたが、男はその困惑に気づいているのかいないのか、一切表情を変えることなく、紅茶を啜りながら次の質問を聞いてくる。


「動物園とか良く行く?」

「動物園ですか?いえ、あまり…」

「ああ、そうなんだ。意外だね」

「意外ですか?」


 どこをどう見て、そう思ったのだろうかとフィリップは不思議に思った。フィリップに動物園を行きそうな要素はどこにもないはずだ。それは店内の内装を見ても同じことで、この場所にもフィリップにも動物園要素は見当たらない。


「ああ、もしかして、牧場派かな?この店で扱う牛乳を仕入れているとか?」

「?――いえ――?」

「あれ?そうなんだ…」


 動物は好きかとか、動物園に行くのかとか、牧場の方が好きかとか、意味の分からないことを聞かれている間に、男は紅茶を飲み終えていた。空になったカップをテーブルの上に置き、男は頬杖を突きながら、フィリップの顔を見上げてくる。


「君は動物と戯れるのが好きなのかと思ったけど、そんなこともないんだね」

「どうしてそう思ったんですか?占いですか?」

「いや、僕はそういうの信じてないから」


 そう言いながら、男は口角を小さく上げていた。その姿にフィリップが怪訝げに眉を顰めた瞬間、男の口が開く。


「君、?」


 その一言が店内に響いた。

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