鯨は水の中で眠っても死なない(12)

 激怒したディールに反して、相亀は酷く落ちついた様子だった。地面が崩れたことも、水溜まりからディールが逃れたことも、一切気にしている様子はなく、服についた埃をはたき落としている。

 その余裕さも火に油を注ぐ行為であり、ディールは更に怒りを増していた。埃が気になるのなら、その埃のついた服も、それをはたき落とす手もなくしてあげよう。


 そう思った直後、ディールは大きく踏み込み、相亀の前に飛び出していた。強く握った拳にその勢いを乗せ、相亀の頭を吹き飛ばすつもりで、全力で振り抜いた。


 しかし、それは相亀の口から漏れ出た水にぶつかり、その衝撃を飲み込まれた。水がクッションの役割を果たしたとはいえ、ディールの拳の威力は車が衝突するよりも激しいものだ。風船ガムのように口元で膨らんだ程度の水で、その全ての衝撃を殺せるとは思えないのだが、相亀にダメージが入った様子はない。


 この力は何か絡繰りがあると冷静な頭で考える一方で、今の一撃にも余裕な態度を崩すことなく、簡単にディールの攻撃を無効化したことにディールは更に怒りを増していた。

 落ちつくように頭の一方では語りかけてくるが、今すぐ吹き飛ばすべきだという声もあり、その声の方がディールの中では大きく聞こえる。


 瞬間、ディールは相亀の頭を狙った拳を引き、もう片方の拳を相亀の頭に向かって振るっていた。それも水の塊にぶつかり、何もなかったように衝撃の全てを吸収する。それがどこまで続くのか試すように、ディールは再び拳を振るい始めた。


 右、左、右、左、とディールは相亀の口元から膨らんだ水の塊に向かって、ただひたすらに拳を振り続ける。衝撃は水にぶつかる瞬間まで目に見えて分かるのだが、水にぶつかった途端、その水に波紋を作るだけ作って、相亀の身体の奥に消えていく。


 これは衝撃を完全に殺しているのではなく、小さくしているだけなのではないかと、一瞬ディールは考えたのだが、ディールが何度も殴り始めて、その考えは違っていることが分かった。一切、動じる様子のない相亀にダメージが溜まっていく様子はなく、ディールの疲労だけが溜まっているようだ。


 このまま殴り続けても、無駄に消耗するだけで埒が明かない。そのように判断したディールが殴る手を止めて、先ほどの攻撃を再度行ってみようと考えた。蹴りによってシャボン玉のように球体の形をした水溜まりを割るというもので、先ほどは地面にぶつかったことで失敗した一撃だ。それを再現しようと思ったディールが相亀から、半歩分だけ下がり、足を上げた。


 次の瞬間、相亀の頭頂部に向かって、勢い良くディールの足が振り下ろされた。それが相亀の身体とぶつかる前に、相亀の頭からは水が流れ出し、口元を覆っていた水の塊と同じような水を作り出す。それは相亀の身体を流れ、地面に落ちていく小さな滝を作りながら、ディールの振り下ろした足を受け止めた。

 そこで起きた現象に、ディールは衝撃の全てが吸収された理由を知った。


 ディールの踵が水に触れた瞬間、踵がぶつかったことで生まれた衝撃は水に波紋を作り、その波紋は小さな滝を伝って地面まで落ちていった。身体の外に溢れ出した水と同じように、体内の水も操れるなら、これと同じ現象が体内で起こせるはずだ。ディールが頭を殴ったことで生まれた衝撃は口内に入り、相亀の体内の水を伝って地面に流れていく。衝撃は地面の中で拡散されるだけで相亀にダメージとしては残らない。


 その仕組みに気づいた直後、ディールは歯を食い縛った。水を利用し、地面に衝撃を逃がされる。それはディールの攻撃が接地している限り、意味を成さないことを意味している。

 天敵としか呼びようのない相手に、自分の築き上げたもの全てを否定された気がして、ディールは憤りを隠せなかった。


「もうやめておけ」


 相亀が小さく呟いた直後、相亀の頭頂部から流れていた水がディールの足に絡まった。ディールは咄嗟に離れようとするが、水がディールの身体を飲み込む速度の方が速く、ディールは逃れることができない。

 このままだとまた溺れるとディールが危惧し、意味があるとは思えないが、反射的に相亀の身体を殴ろうとした。


 その直前、相亀の体勢が急に大きく崩れて、地面に倒れ込んだ。ディールを拘束しようとしていた水も、倒れ込む相亀についていく形でディールから離れる。


「何だ…?」


 咄嗟に距離を取ったディールの前で、倒れ込んだままの相亀は不思議そうに呟いた。その疑問に答えるように、物陰から声が聞こえてくる。


「平衡感覚が鈍くなって、うまく立つことができなくなったんだよ」


 その声にディールが物陰に目を向けると、そこから七実が姿を現した。今の言葉の意味は分からなかったが、七実の力は聞いたことがあったので、相亀の身体に何かをしたのかとディールは大体だが察する。


「No.7の小細工かぁ…どうして、分かったんだぁ?」

「ん?俺に話しかけたか?」


 ディールは七実に来た理由を問いかけたが、七実はそれを理解していない上に、返答されてもディールは分からない。あれだけお互いに力を使っているのだから、それを察知したのだろうと納得することにして、ディールは転がった相亀に目を向けた。

 今なら抵抗されることなく、確実に殺せる。そう思った直後、相亀が呟いた。


「そうか…この身体はもう使えないか…」


 それは日本語だったため、何を言ったのかディールには分からなかったが、それを聞き返す前に、水道管が破裂したように相亀の身体から水が噴き出した。


 その水は相亀の前で人の形を作っていき、やがて、そこに見知らぬ全裸の男が立っていた。


「何だぁ?変態の登場かぁ?」

「教育的によろしくない格好はやめて欲しいんだが?」

「おお?俺が出てきたことよりも、裸の方に食いつくのか」


 そのように呟きながら、男は楽しそうに笑みを零した。

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