黒い犬は妖しく鳴く(7)

 相亀が事前に連絡を入れ、幸善は再び、あの地下施設を訪れることになった。様々な噂を生み出す、開かずのトイレの前に、幸善はノワールを抱きかかえながら立っていた。


 きっかけは学校で繰り広げられた幸善と相亀の会話だ。とても穏便とは言えない会話の中で、幸善がぽつりとノワールを飼うことになったと漏らしたところ、相亀が確認するから連れてこいと言いだしたのだ。幸善は何故、確認が必要なのかと思ったが、幸善が最も聞きたいところである自分に何を飲ませたかなどの話をするには、それが必要と言われたら断ることはできない。


 相亀がトイレの扉を開け、幸善は再びあの階段を下りていく。その先にあるエレベーターも、そこから繋がる廊下も、全て一度見たことのあるものだった。


「どこに行くんだ?」

「ああ?Q支部だろうが」

「違う。部屋の話だ。それくらい理解しろ、馬鹿」

「誰が馬鹿だ!?」


 自分が何をされたのか不安に思う気持ち由来の苛立ちと、相亀の天性の才能とも言える気の短さが重なり、二人の会話は常に喧嘩腰の状態になっていた。唯一冷静さを保っているノワールが、騒ぐ高校生二人を呆れた目で見ている。


「いいから、早く場所を教えろよ」

「嫌だね。そんな態度の奴には教えない!!」

「はあ!?意味分からねぇーんだけど!?」


 睨み合いながら、時間を浪費する二人の姿に、ノワールは干物になる覚悟も決め、ただ事の成り行きを見守っていた。


「あっ、いた」


 しばらくして、ようやく幸善でも、相亀でもない声がその場所に現れる。廊下の途中で言い争いを繰り広げる二人を呼びに来たらしい水月だ。


「何してるの?待ってるよ?」

「いや、こいつが」


 相亀が幸善を苛立ちの募った表情をしながら指差す隣で、幸善は水月を見たまま固まっていた。夢ではないと分かった出来事の中で、唯一夢かもしれないと思っていた水月も確かに実在していたと、密かに驚いていた。


「早く来て」


 そう言いながら、水月の目が幸善に向く。その途端に、どこか気まずそうで、どこか申し訳なさそうな顔に変わる。


「こんにちは」


 水月はそれだけを言って、幸善と相亀を案内するように歩き出していた。幸善はその背中に特に言葉を返すこともできないまま、会議室に案内される。前回と違い、今回は『会議室A』だった。


 中には、既に三人の男が待っていた。一人は以前も逢った牛梁だが、後の二人は見たことのない顔だ。頭に寝癖のついたTシャツ姿の男と、牛梁ほどではないが目つきの悪いスーツ姿の男の二人だ。


「案内してきました」


 会議室の中に入ると、すぐに水月と相亀は男達の近くに移動していた。どうやら、スーツ姿の男の方が代表者らしく、幸善に話しかけてくる。


「君が頼堂幸善君?」

「はい。貴方は?」


 男は笑顔を作ろうとしているのか、表情を少し変えていたが、幸善の目には凶悪さが増したようにしか見えなかった。牛梁には及ばない表情が、牛梁に匹敵する表情に変わったように思える。


「私はQ支部の支部長、鬼山きやま泰羅たいらだ」

「あ、ああぁ…支部長ですか…え?支部長?」


 幸善が確認を取るように水月達に目を向けると、水月達は小さくうなずいてくる。


「見えないか?」

「いや、そうじゃなくて…偉い人が出てくるとは思ってなかったから」

「事態が事態だから出てくるさ」

「一応、私も挨拶をしておいた方がいいですか?」


 鬼山の隣でラフなTシャツ姿の男が手を上げた。白いTシャツには赤文字で大きく、『236236P』と書かれている。その何とも表現できないセンスに幸善は言葉が出てこない。


「私は冲方うぶかたれんと言います。一応、この子達をまとめる隊長をしています」


 隊長と言われても、良く分からないが、水月や相亀よりも偉いことだけは分かった。それだけ偉いのなら、せめて寝癖くらいは直しておいて欲しかったが、水月達が指摘しないということはいつもこうなのだろう。

 そう思っていると、後ろから水月が冲方の肩を叩いた。


「寝癖できてますよ」

「え?本当に?さっきまで寝てたからかな?」


 そう言いながら、冲方は寝癖ができている方とは反対の頭を手で押さえ始める。その姿を見ているだけで、幸善はこの組織の緩さを感じていた。自分に何かの薬を盛られたことは分かっているが、そこに対する不安もこの段階で薄まってくる。


「さて、まず一つ確認しておきたいのだが、君は全て覚えていると?」

「全てがどこからどこまでのことか分かりませんが、ここに以前来たことなら覚えています」

「そうか。実は私達は君の記憶をはずなんだよ。もちろん、全てではなく、この施設や妖怪等の知識に関する記憶をね」

「え?どうやって?」

「専用の機械がある。ティッシュ箱くらいの大きさで持ち運びもできる優れものだ。それを使って、君の記憶…何なら、商店街での出来事を隠蔽するために、それを知る可能性のある人物の記憶も消し、新たな記憶と変えた」


 幸善は東雲や我妻から話を聞いた時のことを思い出していた。二人が何も知らなかったのは、二人の記憶か、商店街での爆発を知っている人の記憶が消されたから、その話が残らなかったのかと理解する。


「君の飲み物に入れたのは、ただの睡眠薬だ。それで眠らせている間に記憶を変え、元の生活に戻させるつもりだった」

「けど、俺の記憶は消えなかった?」

「理由は分からないが、そういうことになる」


 鬼山だけでなく、冲方や水月達も困惑している顔を見る限り、幸善のように記憶が消えないケースは滅多にないことだと分かった。幸善にもその理由は分からないが、記憶を消すくらいに隠したいことを隠せていないことに気づき、幸善の中で嫌な予感が膨らむ。


「ここからが君の施設への立ち入りを許可した理由になるのだが…」


 鬼山がそう口に出した瞬間、幸善の中で膨らんでいた嫌な予感が破裂する音がした。今すぐ逃げ出したい気持ちに駆られるが、ここは相手の土俵の上であり、逃げられるとは思えない。


「私達としては妖怪や仙人の話を世に出したくない。妖怪の話が世に出ると、動物の不必要な殺処分が横行する可能性がある。その可能性だけは生み出したくない」


 鬼山が幸善に鋭い目を向けた瞬間、幸善は反射的に立ち上がっていた。自然とノワールを抱く力が強くなり、腕の中でノワールが唸る。


「まさか、口封じをしようと…?」


 幸善の呟きに鬼山達は揃って、きょとんとした後、一斉に笑い出した。鬼山の表情から、さっきまでの鋭さが消え、かぶりを振っている。


「君を始末するつもりなら、最初から睡眠薬ではなく、毒薬でも盛っている。君にはただ口外しないように約束して欲しいだけだ。君が話さないでいてくれるなら、それだけで問題ない」

「そ、そんなこと、ですか…?」

「約束してくれるか?」

「それはもちろん。話したところで信じる人がいるとは思えませんし」

「そうか。それは良かった」


 鬼山がほっとしたように顔を逸らした直後、幸善もほっとしたように崩れ落ちる形で椅子に座っていた。腕の中のノワールが呆れたように鼻を鳴らし、そういえばノワールのことを聞いていなかったと、幸善は鬼山にノワールを見せる。


「そういえば、うちでこいつを飼うことになったんですけど、大丈夫ですか?」

「あ、ああ、問題はない。ただ妖怪の多くは長命で、普通の動物と違って、容姿がなかなか変わらないからな。場合によっては俺達を呼んでくれたら、君に対して行おうとした記憶の操作を行い、その犬が死んだことにする。唐突な別れは悲しいかもしれないが、愛犬を化け物と思うよりはマシだろう?」

「まあ、確かに」


 幸善がノワールの顔を覗き込むと、ノワールは幸善の顔を見上げて、酷く納得していない顔をしていた。


「飼い主面するなよ」

「はあ!?」

「お前の妹には飼われたが、お前に飼われたつもりはないからな」

「俺もお前なんて飼ったつもりねぇーよ!?」


 幸善は必死に叫びながらも、周囲にいる人々の視線が自分に集まっていることに気づいた。


「君…」

「あ、いや、今のは言葉の綾で…」

のか?」


 心底驚いたように聞いてくる鬼山を見て、幸善は同じだけに驚くことしかできなかった。やはり、周囲の人々にはノワールの声が聞こえていないのかと思う一方で、そこまで驚くことなのかと思ってしまう。妖怪と関わっている仙人なら、妖怪と話せる人くらいは他にいてもいいだろう。


 この瞬間まではそう思っていた幸善だったが、この直後、妖怪と話せる人間の存在は未だにことを知り、鬼山達と同じだけの驚きの表情を浮かべることになるのだった。

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