希望の星は大海に落ちる(16)

 ポールによる特訓を開始してから、既に数日が経過していた。仙気を把握するために、自身の内側と向き合う時間は未だに続き、幸善の身体は少しずつ変調を来していた。


 仙気の把握のために内側に尖った感覚は、幸善の全身の神経を鋭敏にし、幸善の感じ取る全ての感覚を詳細に伝えてくるようになっていた。


 息を吸い込めば、その空気が口腔内から気道に渡り、肺胞へと向かう感覚が全て手に取るように分かり、食事を取る際には、噛み砕いた食材が舌の上から喉に移り、食堂を通っていく感覚すらも分かった。

 普段は絶対に意識しないような感覚も、本人の意識とは関係なく、脳に押し込まれるようになり、幸善は耐え難い不快感をそこに覚えるようになっていた。


 今では数時間に一度、堪え切れない吐き気に襲われ、込み上がってきた嘔吐物の感覚に気持ち悪さを覚え、数分から数十分、トイレに籠って胃の内容物の全てを吐き出す時間が生まれてしまうほどだ。


 夜もなかなか寝つけず、ようやく眠れたと思っても、意味の分からない悪夢によって、全身の神経を逆撫でされ、込み上がってきた気持ち悪さをトイレで吐き出す必要があった。


 それが数日続き、幸善は目に見えて疲弊し始めていた。このままだと幸善は人型ではなく、自身の神経に殺害される。

 その様子を見たポールがうんうんと納得するように頷いた。


「いい感じだね」

「どこがですか?どこをどう見たら、この状態がいい感じに見えるんですか?」

「今の君は本来、知り得ない感覚を掴み取っている状態だよね?そこまで来たら、仙気まで後一歩だよ」

「本当に?全然関係ないものしか、アンテナに引っかからないんですけど?」


 仙気も本当に同じ系統に存在しているのかと幸善は疑問に思ったが、その疑問も全うだったようだ。ポールが平然とした口調で言ってきた。


「だって、チャンネルがずれているからね」

「は、はあ?」

「前に言ったよね?仙気は存在しないはずのものだ。だけど、君は存在する感覚ばかりを追っている。だから、吸った空気とか、食べた物とか、尿管を流れる尿とか、全身を循環する血液とか、そういう感覚を掴んで気持ち悪くなるんだよ」

「なら、どうしろと?」

「深度で言うと、それは正解なんだ。そこまで深掘りして、ようやく仙気は掴める。だけど、その感覚を万人が覚えないように、そこまで深掘りすることは難しい。君はそこを突破できたから、後はその方向性を肉体的感覚ではなく、精神的感覚に移す必要があるんだよ。もうちょっと分かりやすい言葉で表現すると、少し抽象的になっちゃうけど、心の在り処だね」


 極端に追い込まれただけあって、それが無駄ではなかったと分かり、幸善は少しだけ救われる気持ちになったが、問題はその次だった。心の在り処と言われても、本人が言ったように抽象的過ぎて、そこに到達する前に身体の内側にある物全てを吐き出しそうだ。


「もうちょっと具体的なアドバイスをください」

「アドバイス?いらないと思うよ?だって、心の在り処は君の問題だし」

「いや、意味分かりませんよ。というか、心の在り処が分かって、仙気の把握ができるんですか?」

「いや、そういうことじゃないけどさ。仙気よりは自分の心の方が身近じゃない?そっちから探った方が、そういう存在しない内面は見つけやすいんだよ」


 存在しないのに見つけやすい。一休さんでも困りそうな頓智を投げかけられた気分だが、既に数日苦しみ、幸善はようやくこの地まで到達したのだ。それを今更捨て去る気持ちにはなれない。


 ゆっくりと目を瞑り、幸善は自身の内側と向き合おうと思った。最近は瞑目すると、眼球の血流が瞼に移り、気持ち悪さを覚えるのだが、それも今は噛み締めるしかない。吐き気を無理矢理胃に押し込み、幸善は鋭敏な神経をどこに尖らせようかと迷った。


 しかし、心の在り処という抽象的な場所がどこにあるのか、目を瞑ったところで分かるはずもなく、幸善はどこかに神経を向ける前に、全身を襲う何となくの感覚に押し潰されそうになった。


 その直前、目を瞑った幸善の姿を見たポールが、何か納得したような声を出した。


「ああ、いいね。目を瞑るのはいいよ。そうすると、心と向き合いやすいからね。ほら、一番有名な心が現れる場所も、目を瞑っている時に見るでしょう?」

「はい?何のことですか?」


 心が現れる場所と言われても、それが分かれば幸善は探していない。そんなものが有名であるものかと幸善は思った。


 しかし、ポールは何も間違ったことを言っていなかった。


「いや、あるでしょう?が」


 ポールがそう呟いた瞬間、その言葉に導かれたように、瞑目した幸善の足元を白いミミズが這うような感覚が現れた。

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