希望の星は大海に落ちる(15)

 部屋の広さは体育館ほどあった。中央にはぽつんと、スツールのようになったパイプ椅子が置かれている。そこに腰を下ろし、幸善は背もたれがない不便さを、心の中で念仏のように唱えていた。


 その状態が継続すること数十秒。もしくは数時間。幸善はパイプ椅子に座り続け、足が固定されたわけでもないのに、移動することを考えようとしなかった。


 ふと床の上を右往左往する一匹の蟻を発見する。蟻の足は床の上とは相性が悪いようで、その足を何度も滑らせながら、どこにあるか分からない目的地にひた走っている。


 その光景をぼんやりと眺めたまま、幸善は頭の上に唐突に置かれた丼を持ち、手に持った小さな刺股で、その中に入ったうどんを掬い上げた。刺股に絡まるように持ち上がった数本のうどんを、幸善はゆっくりと口に運んでいく。


 その間も、幸善の視線は蟻に向いていた。広い部屋の中を自由に歩き回れるはずなのだが、その移動には不自由さしか感じられない蟻を見ながら、幸善はうどんを口に含む。


 その瞬間、数本のうどんが一斉に変化し、幸善の口の中で真っ白なミミズになった。ミミズは幸善の口の中に無理矢理侵入し、そこでのた打ち回りながら、幸善の喉の奥に滑り込んでくる。


 唇から舌の上、喉の奥に広がる不快感に、幸善は手を口の中に突っ込みながら、必死になって悶えていた。白いミミズを捕まえようとするが、幸善の手が届く範囲にもうミミズはいないようだ。どこまで手を突っ込んでも、ミミズの尻も捕まえられない。


 このまま手を突っ込み過ぎると、胃液に到達して、手が溶けてしまう。そう思った幸善が手を途中で止めて、口から引っこ抜いた瞬間のことだった。


 幸善は眼前に聳え立つ金属製の柱の存在に気づいた。視線を上げたら、嫌にも目に入る柱だが、さっきまでそこにあったのか、思い出そうとしても幸善は思い出せない。


 その柱は直立ではなく、斜めに地面から生えているようだった。正確に言ってしまえば、斜めの状態で地面に置かれているように見え、その接地面がどうなっているのか確認しようと、幸善は柱の奥を覗き込んでみる。


 そこでその柱が幸善の視線の果てまで伸びていることに気づいた。柱は地上付近でくるりと曲がり、遠方で再びくるりと曲がって、目の前にある柱と同じように斜めの柱を作り出している。


 これは何かと考え、手元の柱の先を見上げた幸善が、その柱の途中で同じように斜めに伸びてきた柱と交差していることに気づいた。その交差した柱を追いかけるように視線を下げると、地面を伸びた柱と平行する形で、同じ状態の柱が遠くに存在していることに気づく。


 この形状は何か見覚えがある。そう思いながらも、それが何であるのか思い出せずに、再び柱を見上げていくと、それらの柱が交差した先に天井が存在していることに気づいた。


 ただし、幸善はその天井よりも、その天井から零れ落ちるように見えている存在に目を奪われ、息を呑んだ。


 幸善の常識とは違うサイズ感だから、それがそうであると理解するのに時間がかかったのだが、間違いなく、その天井の上から見えるものは、人間の足だった。


 それを見た幸善が戸惑いながら、ゆっくりと下がっていくと、天井で隠れていた人間の足以外の部分がゆっくりと見えてくる。太腿と太腿の間から、次第にその足を持つ人物の顔が覗き始め、幸善は後退りながら、かぶりを振った。


 見間違うはずもない。それは幸善がこの世で最も見た人物の顔だ。


 しかし、幸善は目の前の現実を信じることができなかった。


 必死になって、かぶりを振る幸善の前で、巨大な人間が手に持った刺股を丼に突っ込み、そこからうどんを掬い上げている。その動きを見て幸善は確信した。


 それはやはり、幸善本人だった。


 そう理解した瞬間のことだ。幸善は唐突に自身の視線がおかしくなったことに気づいた。何が起きたのかと考えてみるが、良く理解できないまま、とにかく自分自身に近づいてみようと思い、足を動かそうとする。


 そこで足がつるつると異常に滑り、幸善は自身の身体に起きた変化に気づいた。


 幸善の身体は蟻になっていた。幸善がさっきまで椅子に座り、見下ろしていた蟻に成り代わっていた。


 どうして、自分が蟻になったのか。理解できないことを考え、現実から逃れるように足を動かしていると、急に幸善の上に影が差し、視界が一気に暗くなる。


 その原因は何かと視線を上げ、幸善は自身を踏み潰すほどの大きさの、白いミミズが落ちてくることに気づいた。


「―――――」


 声にならない声を上げ、幸善がミミズの下敷きになった瞬間、その衝撃を幸善は身体の前面で受け止めた。じんわりとした痛みに耐えながら、幸善はゆっくりと目を開ける。


 幸善の眼前には床が広がっていた。その床を手で押しながら、身体を起こしてみると、そこは奇隠の本部で、幸善が与えられた部屋のようだ。


 御柱と一緒に食事を済ませた後、幸善は御柱の案内で他の施設を確認してから、自室に戻ってきたのだ。そこで仙気の把握を少しでも早く身につけるために、一人で確認しようとしていたら、精神的な疲弊と満腹が重なり、気づいた時には眠っていたらしい。


 意味の分からない夢を見てしまったことに気分を悪くしながら、幸善はベッドの上に戻っていく。そこに寝転がり、目を瞑ってから、幸善は何かを確認するように、口元に手を伸ばしていた。


 奇妙なことには残っていた。

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