花の枯れる未来を断つ(9)

 ナディア・クリスにとって、今回の仕事は簡単なものだった。本来の仕事の合間に偶然、発見した檜枝に声をかけ、キッドの住む島に誘うだけのものだ。


 体質や島の説明は少し長くなるかもしれないが、檜枝を無理矢理に連れていくつもりはない。体質を持った人物の確認ができれば、クリスの仕事は最低限完了し、島に行くかどうかは檜枝の自由だった。


 それで島に行くというのなら、少し中断して島にコンタクトを取ってから、島に檜枝を連れていく。行かないのなら、そこで別れて終わり。

 仮に檜枝が必要となったとしても、檜枝の所在さえ分かっていたら、その後はどうにでもなる。


 さっさと終わらせて、さっさと次に移ろう。特にクリスは奇隠に認識され、行動自体に制限がかかっている。長時間の行動はできない。

 その思いが伝わったわけでもなく、檜枝は島に行くつもりはないと、はっきりとした意思を見せ、クリスは内心安堵した。


 もしも檜枝が島に行くと言い出したら、少し仕事が長引いてしまうところだったが、それも杞憂に終わったようだ。


 クリスは檜枝に別れの挨拶を口にし、檜枝の家を後にすることで終わる予定だった。


 しかし、それはあくまで予定でしかなかった。現実はそううまく行くものではないようで、それを知らせるように檜枝の家から立ち去ろうとしたクリスの前に一人の人物が立ち塞がった。


 その人物は見るからに人間ではない、まるでアザラシのような姿で、その姿にクリスはゆっくりと青褪めた。


 クリス達にとっても、人型ヒトガタは敵だ。もしくは人型の方がクリス達を敵と明確に認識していると言えるのかもしれない。

 主目的が人間を滅ぼすことにある人型からしたら、クリス達は奇隠との関係性など関係なく、平等に敵でしかない。


 その人型の動きをクリス達も当然、把握する必要があった。不意に後頭部を殴られ、それで終わりとなったら笑えない。


 奇隠が擬似ぎじ人型と命名した存在は当然把握し、それがどのような存在なのかも分かっていた。


 だから、目の前にアザラシの姿をした人物が立ち塞がった瞬間、クリスはその正体を理解し、ゆっくりと嫌な感覚に包まれた。


 人型の手先である以上、擬似人型の行動目的は人型に付随するはずだ。人型が人間を滅ぼすと言っているのなら、擬似人型の敵は人間と言えるだろう。

 その擬似人型が自分の前に姿を現し、それを偶然と考えられるほどに、クリスは暢気ではなかった。


 目の前のアザラシの目的は自分だ。


 そうクリスが認識した直後、アザラシが鳴き声を上げ、ゆっくりと腕を上げた。大きく発達した水掻きがヒレのようになっている手だ。


 その動きに合わせて、アザラシの前にアクリル板のように透明な板が現れ、空中で静止した。


「あれは一体……?」


 その声が背後から聞こえ、クリスはそこにまだ檜枝が立っていることを理解した。


 檜枝の体質が戦闘に向かないことは分かっている。ここで巻き込まれたら、檜枝に自衛能力はないに等しい。


「家の中に戻りなさい!」


 咄嗟に振り返って、クリスは叫び声を上げたが、ここに来て言葉の壁が邪魔をした。


 クリスの迫力に驚き、檜枝はすぐに言葉の意味が理解できなかったらしく、そこで身体を僅かに硬直させたまま、動かなかった。


「チッ……何で、こんなことに……」


 恨み言を吐きながら、クリスは檜枝に抱きつくように飛びかかった。家の中に飛び込みながら背後を振り返り、さっきまで自分の立っていた場所で、アザラシ人間の作り出した透明な板が静止していることに気づく。


 ただ板は空中で静止している以外の変化を一切、見せていなかった。攻撃が中断されたのか、他に意味があるのか、その光景からは判断できない。


「取り敢えず、家の奥に行きなさい!」


 クリスが檜枝を立たせて、家の奥に送り出そうとした。檜枝をここで巻き込んで、檜枝を守りながら戦う自信はクリスにはない。貴重な体質持ちである檜枝をここで失うことも避けたい。


 その思いから、クリスが檜枝の背中を押した直後、再び背後で透明な板が動き出した。

 檜枝の背中を押しながら、背後にも目を向けていたクリスはその動きに気づき、玄関先から草木を生やして、自身と透明な板の間に草木の壁を作り出そうとする。


 その板が何をするものなのか分からないが、取り敢えず、一度止めてしまえば、それなりの時間稼ぎはできるはずだ。


 クリスはそう思っていたのだが、その後ろで家の奥に押し出され、とぼとぼと歩きながら振り返った檜枝は違う結果を見たようだ。


「あ、危ない!?」


 咄嗟に叫んで、檜枝はクリスの服を引っ張った。その行動によって体勢を崩し、クリスは驚きながら背後に倒れ込む。


「ちょっと……!?何を……!?」


 クリスがそう呟いた直後、生育し切った草木が花を咲かせ、透明な板と衝突した。


 瞬間、草木は板に干渉することなく、通過する板を見送った。

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