影は潮に紛れて風に伝う(37)

 御柱と共に日本に帰る途中の機内でのことだ。幸善はそこで突如、出現した人型に襲われた。御柱との協力で、その人型を対処できたと思ったのも束の間、幸善は人型によって機外に引き摺り出された。


 その身体に人型の肉片をまとい、落下し始めた幸善は死を覚悟した。少しずつ海面が近づいてくるが、その距離は果てしない。その果てしなさが僅かな希望も打ち砕き、幸善に絶望だけを与えてくる。


 幸善は人型と共に落下しながら、様々なことを考えた。大切なことからくだらないことまで、好きに考える時間はあった。人型は幸善に止めを刺そうとしなかった。

 この時の幸善は忘れていたが、人型は幸善という存在を殺せない。それは人型によって明言されていたことだ。


 それを思い出したのは、海面が更に近づいて、幸善が覚悟を決め始めた時のことだ。幸善が身にまとっていた人型の身体が変化し、幸善を包み込むように肉片が伸びた。


 母胎で育つ赤子のように優しく包まれ、唖然とする幸善の耳に壮大な水音が響き渡る。着水したようだ。

 本来、あの高さから着水すれば、着水した途端に身体は弾けて、元の形が分からないほどにバラバラになるはずだが、幸善を包み込んだ人型の身体は奇妙に波打つばかりで、弾けることも幸善に衝撃が伝わってくることもなかった。


 肉の風船の中に入った幸善には海面すら見えない。外がどうなっているのかも、自分がどのような状況に置かれているのかも分からない。

 これを助かったと呼んでいいのかどうか、悩みながらもゆっくりと立ち上がり、幸善は肉の風船から外に出ようとした。出るための穴などあるはずもないので、仙気を利用して肉に穴を開けようと思ったのだ。

 本当の風船をこじ開けるように、肉の一部に手を突き刺して、無理矢理左右に引っ張ることで穴を開けようとする。


 しかし、幸善がどれほど手に仙気を移動させても、幸善の手は自分を取り囲む肉壁を貫いてくれなかった。落下のエネルギーも存在しないのに、その肉壁は肉と思えないほどに硬く厚い。


 それでも、外に出ようと手を動かすこと数回。幸善の手が悲鳴を上げるよりも先に、肉壁が悲鳴に似た音を上げた。

 本当に最初は低く唸るように悲鳴を漏らしているのかと思ったが、そうではないことに気づいた時には、既に肉壁が幸善に接近し始めていた。


 収縮している。その事実に気づいた時には遅く、肉壁は幸善の身体にピタリと触れてくる。


 人型の身体がどれほどに丈夫か分からないが、少なくとも、この肉壁が幸善の手で貫けない硬度をしていることは確かだ。助けたからには殺すつもりはないのだろうと思うが、人型にとって幸善は殺せないだけで、生きている以上の条件は必要としていない。

 どのような形でも幸善が生きているのなら、そこから情報を引き出せるだけ引き出し、不必要と判断した瞬間に始末するはずだ。


 幸善の意識を奪う。その一点だけを見据えた行動であり、その行動を通されると、幸善は海面にぶつかっていた方が良かったと思う未来が待っているかもしれないと怯えた。


 とにかく脱出をしたい。その一心だけで、幸善は人型の身体に手を伸ばす。


 戦うことは考えられない。相手が人型であることもそうだが、それ以上に問題なのが相手の正体不明さだ。何度も倒されているが、未だに人型は幸善の前に姿を現し、何ともないと言わんばかりに行動している。

 その異常さを幸善が相手にできるとは到底思えない。


 肉を押すように突き破ろうとしたが、その肉は本当の風船のように伸びるだけで、幸善の手を通してくれなかった。

 その間にも幸善の身体は密閉され、少しずつ酸素が奪われていく。思考が緩やかに停止し、意識は朦朧とし始め、肉に押しつけた頬だけが生温さを感じている。


 その状況の中で、幸善はさっきの繰り返しのように、落下するまでの間に考えていたことを思い出した。大切なことからくだらないことまで、幸善の頭の中を走馬灯のように駆けていく。


 それに加え、今度の幸善は意識が朦朧とし、より心の深い部分にある感情が浮かび上がっていた。並べられた思い出の数々に触れ、幸善は本能的に思った。


 死にたくない。


 その感情が浮かんだ瞬間、幸善の伸ばした手が人型の身体に触れた。その時、幸善の中を回っていた仙気が膨らみ、人型の表面で生温さを作っていた妖気と混じった。


 耳を劈く音に包まれ、幸善の身体が吹き飛んだのは、その直後のことだった。幸善は何が起きたのか分からないまま、朦朧とした意識の中で自分の周囲を舞う水飛沫や肉片を眺めていた。


 巻き上がった水飛沫や肉片は幸善の上で、渦のような形を作り出してから、緩やかに落下している。その中で幸善の身体も、ゆっくりと海面に近づいていた。


 助かったのか。自分は生きているのか。それらの疑問に答えが出ぬまま、幸善は海面に身体を打ちつけて、その中に沈んでいく。


 朦朧とした意識をついに手放す直前、幸善は海面に亀裂が入る光景を見た気がした。

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