蜘蛛の糸に秘密は吊られる(2)
「ただいま」
幸善の第一声は疲れ切っていた。疲れの理由は語るまでもない。Q支部で聞いた話のことに、水月や相亀の揶揄いも上乗せされ、仙術の特訓に勤しんでいた頃を思い出させる疲労感に満ちていた。
ただし、幸善の疲れはここで終わらない。家に帰ったら、今度はノワールを相手に妖気の感知の特訓がある。これは仙術を使えるかどうかの重要な鍵であり、そもそも妖怪かどうかを把握するために絶対に必要な要素だ。特訓を休むことはできないと考えながら、幸善がリビングに入ると、そこでは頼堂
「あ、ただいま~」
幸善の顔を見るなり、満面の笑みを浮かべ、聞いたことのないような高い声でそう言ってくる。いつもは喉にへばりついた汚れでも取ろうとしているのかと言いたくなるような低い声で挨拶してくるのに、今日はやけに上機嫌だと思う一方で、その上機嫌さが少し不気味に思えていた。
もしかしたら、人型が化けているのかと幸善は最近見た妖術から考えてしまう。
ただそんなことがあるはずもなく、千明は挨拶するなり、興味を失ったようにスマートフォンに目を戻してしまう。その態度に戸惑いつつも、幸善が一度、キッチンに移動したところで、千明と一緒にリビングにいたはずのノワールが追いかけてきた。
「おい、今日もか?」
コップにジュースを注ぎ、一息で飲み干そうとしていた幸善の前で、ノワールが聞いてくる。何のことを言っているかは聞くまでもない。さっき幸善が考えていたことだとすぐに分かった。
幸善はコップを一度口に外しながらうなずき、それから、一息でジュースを飲み干す。炭酸が喉に強烈な刺激を残し、その後に湧き上がってくるげっぷを口から放ち、幸善は少しだけ落ちついた。
そこで幸善は何となく気になって聞いてみることにした。
「そういえば、千明は何であんな感じなんだ?」
「ああ…何でも、大好きなバンドの来日が決まったとか」
「ああ、
「俺がどうした?」
そう言ってから、ノワールは自分の名前の由来を思い出したようだった。「そうか」と口に出しながら、納得したように小さくうなずいている。
「それでいつ来日するんだ?」
「さあな。そんなことまで俺に言わなかったからな。でも、チケットが取れたとか、そんな感じじゃなかったな」
「それで良く騒げるな…ていうか、お前はチケットを知っているんだな」
「馬鹿にするな。俺は犬だぜ」
「だからこその驚きだったんだけど…まあ、いいか」
幸善はノワールを抱きかかえた。このまま部屋に連れていくために、キッチンからリビングに移動し、千明の横を通り抜けて、リビングを出る。その間も、千明はNoir.のことで頭が一杯なようで、幸善に目を向けてくることは一切なかった。
そこから、自分の部屋まで移動した幸善がノワールを目の前に置く。ノワールと向き合った形で座ると、ここで幸善の特訓が始まった。ノワールから漂っているはずの妖気に意識を集中し、その存在を感じ取ろうとする。
何日もできていないが、今日こそ――と意気込んでみせるものの幸善は一切妖気を感じ取ることができない。
「お前…才能ないんじゃないのか?」
「そういうこと言うな。悲しくなるから」
「いや、でも、流石に少しくらい感じ取れるだろう?そんなに分からないものか?」
「そもそも、どんな感覚で感じ取ってるんだよ?そこの部分が分からないといまいち分からないから」
「俺は匂いに近いな」
「匂ったらいいのか?」
試しに幸善がノワールに顔を近づけ、その身体を嗅いでみる。
「犬臭いな」
「犬だからな」
「分からない…」
「お前は違うんじゃないのか?仙気の感覚とか参考にしろよ」
「仙気か…風の感覚が近いな…」
そう思った瞬間、幸善はミミズクで生温い風を感じたことを思い出した。
「そういえば、ミミズクで変な風を感じたんだよな…生温い風というか、嫌な風というか…あれは何だったんだろう?
「それってお前、妖気を感じ取ったんじゃないか?」
「え?」
「いや、だって、あの時の妖気はかなり凄かったぞ。あれくらいに強い妖気なら、お前が感じ取れても不思議じゃないと思うぞ」
「強い妖気…なら、妖術を使っている時なら感じ取れるとかなのかな?」
「試してみるか?」
ノワールが幸善の前で妖術を使い始める。その姿に幸善は意識を集中させてみる。
「何か感じるか?」
「そよ風を感じる…」
「まあ、起こしているからな…」
結局、ノワールから妖気を感じ取ることはなく、生温い風の正体は分からないままだった。
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