蜘蛛の糸に秘密は吊られる(10)

 死亡してもサイズの変わらない巨大な蜘蛛。


 これまでの常識から外れた現象に、幸善と相亀は困惑していたが、そのまま考え続けていられる状況でもなかった。


 二人は考えても分からない現象から離れ、気を失った女性と足に糸を絡めた男性に目を向けた。


「取り敢えず、Q支部に連絡して人を呼ぶか。それから、その蜘蛛の処理と、そこの二人の記憶を改竄しないと」

「言い方が完全に悪役だが、それもそうだな。俺が連絡しておくから、相亀があの人の糸を取ってあげてくれ」

「はあ?何で、俺が…」

「いや、だって、あの糸を取る実績があるから」


 さっきまで相亀が張りついていた壁を指差し、幸善は指摘した。

 幸善はあの糸に捕まっていないから、その辺りについて何とも言えないが、相亀に関しては確実に取れるということが判明している。


 蜘蛛の糸を取るのに、相亀ほどの適任者はいないはずだ。


 相亀もその部分に納得したのか、何か言いたげな表情を見せながら、何も言うことなく、男に近づいていた。


 その間に幸善はスマートフォンを取り出し、Q支部、もとい、そのパイプ役をやってもらえそうな冲方に連絡する。


 幸善が電話をかけている隣で、男に近づいた相亀だったが、すぐ目の前に立っても、男には気づかれていなかった。


 恐らく、男は巨大な蜘蛛の姿を見た上で、今もその恐怖から逃れようと必死なのだろう。

 譫言のように何かを呟きながら、足に絡まった糸を必死に取ろうとしているが、その言葉の中には『逃げたい』という欲求と、『助けたい』という願望が含まれている。


 声をかけても気づかれないな。そう思った相亀が屈み、男の糸に掴みかかる。


 そこでようやく男は相亀に気づいたようで、驚いた顔を向けてきたが、相亀は気にすることなく、蜘蛛の糸を引っ張った。


 この蜘蛛の糸の取り方はさっき取った時に分かった。

 とてつもなく絡み、とてつもなく取れない糸だが、その糸にも弱点がある。


 それは絶対に取れないわけではないというところだ。


 ずっと引っ張り続けていたら、その内、取れる。


 餅のように手の中で丸めながら、糸を引っ張り続けること約一分。

 相亀が力強く引っ張るまま、蜘蛛の糸は男の足から離れていた。


(よし、取れた!!)


 思わず、ガッツポーズを取ろうとした時、相亀は自分を見ている男の視線に気がつく。

 思いっ切り顔を見られたが、これも後で記憶を改竄したら何とかなる。


 冷静さを装いながら、相亀は手の上で引き続き、餅のように糸を丸めながら、男に聞く。


「大丈夫ですか?」

「え…?あ、は…」


 男が返事をしようとした瞬間だった。


「五分ほどで来てくれるらしいぞ」


 相亀の後ろで電話をかけていた幸善が、相亀に近づきながら、声をかけてきた。


 相亀が返事をしようと振り返りかけた瞬間、男の顔が幸善に向き、驚きの表情を作っていることに気がつく。


「どうしました?」

「え…!?あ、いや…!?」


 男は幸善から相亀、更にその後ろと視線を泳がせながら、表情を強張らせていた。


 男の良く分からない反応に、相亀が戸惑っていると、不意に男の視線が相亀の後ろに止まる。


「ああ!?蜘蛛が!?」


 男の唐突な叫び声に、相亀と幸善は同時に背後を見ていた。


 まさか、蜘蛛が死んでいなかったのか。

 そう思ったが、蜘蛛は二人の後ろで息絶えている。


「蜘蛛がどうしたんですか?」


 聞きながら振り返った相亀が、そこで動きを止めた。


 さっきまで、そこにいたはずの男が姿を消していた。


「はあ…?はあ!?」


 慌てて路地から飛び出し、左右を見回すと、一目散に逃げ出している男の後ろ姿を見つける。


「逃げられた!?」

「おい、何してるんだよ!?」

「五月蝿いな!?逃げると思ってなかったんだよ!?」


 幸善に怒りをぶつけながら、走り出そうとした瞬間、相亀の頭の中で息を吹き返したものがあった。


 それが幸善変態説だった。


「ちょっと待て!?」


 走り出しかけていた相亀が路地まで戻ってきて、そこにいる幸善に慌てて声をかける。

 幸善は男を追いかけたと思っていた相亀が戻ってきたことに、心底面食らった顔をしていた。


「おい、何してるんだよ!?追いかけろよ!?」

「いや、そうはいかない!!お前をその女性と二人っきりにすることはできない!!」

「はあ!?何でだよ!?」


 言葉以上に表情で、理解できないと語る幸善に向かって、相亀はまっすぐに指を伸ばす。


「お前が変態だからだ!!」


 自信満々な相亀の態度に反して、その一言が告げられた直後、路地の間を通り抜ける風の音も分かるほどに、静かな時間が流れていた。


 それから、幸善は相亀が何を言っているのか気づき、驚きから目を見開いている。


「あれ、まだ生きてたのか!?」

「お前をその人と二人っきりにすると、二次被害が出るかもしれない。それだけはできない!!」


 真剣な表情で言ってくる相亀に幸善は何かを言いたそうな顔をしていたが、今は男が逃げ出している状況であり、その時間もない。


「ああ、もう…それでいいから、あの男の人は俺が追いかけたらいいんだな!?」

「その方がいい」

「分かったよ!」


 相亀に代わって、今度は幸善が路地を飛び出していく。


 その姿を見送り、達成感のある表情をしてから、相亀は自分の置かれた状況に気がついた。


 狭い空間、というか、路地に女性と二人っきり。

 もちろん、巨大な蜘蛛の死体はあるが、それ以外に人はいない状況に、相亀はどうしていたらいいのか分からなくなる。


 それも女性は意識を失い、無防備に眠っている状況だ。ただじっと見ているのも悪い気がしてくる。


 他に誰かが来るまで、この場所で見守っていたらいいだけだから、ずっと見ている必要もないだろう。


 そう思った相亀が女性と蜘蛛に背を向け、路地の外を見るために顔を出していた。

 これなら、誰か来たら分かる上に、人が入ってきそうになったら止めることができる。


 内心、女性をじっと見る必要がなくなったことに安堵しながら、相亀はQ支部からの応援が来ることを待っていた。


 この時の相亀はまだ気づいていなかった。

 既に意識を取り戻していた女性がこっそりと逃げ出そうとしていることに―――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る