役立たずの兜に花を供える(9)
感覚に影響を与える人型の存在は知っていた。厄野は報告書に目を通しただけだが、直近でQ支部を襲った人型の一体がそうらしい。
匂いを用いるそうで、鼻呼吸をやめるだけで状況が改善されるそうだ。もちろん、それに対抗する策もあるようなので、完璧な対策ではない。
自身の状況を顧みた時に、厄野は自然とそのことを思い出したが、その人型の妖術に関する報告書とは決定的に違う一つのポイントがあった。
それが時間だ。
壁一面の花を確認し、それが何かしらの攻撃を発生させる前に厄野は動き出そうとした。そこまでの判断に多くの時間は使っていない。数秒から数十秒というところだ。
匂いを用いた人型の妖術は、その影響を受けるまでに一定の時間が必要だった。その代わりに発揮する効果が絶大なものなので、そのロスも問題ではないというような妖術だったが、今の状況は明らかにその時間がなかった。
つまり、その妖術とは根本的に違う仕組みで、厄野の自由は奪われた。壁に頬を押しつけ、押し返すように両手を突きながら、厄野はそれを理解する。
「花はとても綺麗よね?それにとてもいい香りがする。色も匂いも、その花にとって必要な何かを呼ぶための要素なの。虫か鳥か、それが何なのかは花によって変わるけど、そうして花は何かを呼び寄せて、自分達を生かしていくの」
クリスの声は厄野の感覚では空中から聞こえていた。本当に空中にいるのか、空中から声がするような錯覚を覚えているのか分からないが、厄野にとって悩ましい部分はそこではない。
圧倒的に有利な状況を作り、気持ち良くなってしまったクリスが、自身の仙術について話していると雰囲気から察することはできたのだが、厄野には一切伝わらない。右耳に入り、何かを話していると思った一秒後には、左耳から声が出ていってしまう。そこから意味を汲み取る仕組みが厄野にはない。
もしも、この言葉が分かれば、一定の対応策が分かるかもしれないのに、言葉が分からないから対応できそうにない。
このままだと最悪死ぬ。いや、はっきりと殺すと明言されていた気がするから、確実に死ぬと言うべきだろう。
言葉が分からなかったので死にました、では洒落にもならない。厄野はさっき考えた自身の状況から、対抗策を見つけ出そうとした。
「そして、その花達が呼び寄せたのは、その成長のための栄養をくれた人物。つまり、貴方ということ。貴方が何に作用されたのか、それは仙気を取り込んだ花しか知らないことだけど、もうその魅力から離れられないことは確か。後は死ぬだけ」
そのように話すクリスの言葉を、意味が分からないと思いながら聞いていた厄野だったが、さっきから言葉の端々に『flower』という単語が交じっていることに気がついた。
そういえば、さっきの攻撃も厄野の仙気は植物に吸われ、最終的に花となった。
その光景を思い出し、厄野は自分の頬が触れる壁面に目を向けた――つもりだったが、路地を見下ろす形になっており、壁面は良く見えない。
だが、そこに咲いた花を見ることはできた。厄野の頬や手も花に触れているようだ。
その光景にまさかと思った厄野が自身の内側に意識を向けた。
もしかしたら、今も花が厄野の仙気を奪い、そこで咲く栄養としているのか、と厄野は最悪の想像をしたが、厄野の体内の仙気に変化は見られなかった。総量も変わっていない。頬や手の触れた花が仙気を奪っていることはないらしい。
そのことに安堵した厄野は、その一連の行動で一つの発見をしていた。それは厄野にとって朗報と言える発見だ。
その発見した事実を元に、厄野が頭を働かせ始めた直後、厄野は周囲のどこからか、地割れに似た音が響いていることに気がついた。感覚の狂った厄野には、音の所在が正確には分からなかったが、その音の正体について思い当たる節があった。
植物がコンクリートを破りながら伸びる時の音。それと全く同じ音だ。
厄野の周囲のどこかで、コンクリートを破りながら植物が成長しているとなると、それは次の攻撃の布石に違いない。
厄野が表情を歪めた瞬間、それを宣告するようにクリスが呟いた。
「ではさようなら」
クリスの一言が聞こえるとほぼ同時に、厄野を大きな影が覆った。その影の正体を厄野が知る前に、その影を生み出した巨大な花は、厄野の上に花びらを落とすように散った。
そして、花びらが厄野の立っていた場所に、鋭利な刃物のように突き刺さった。
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