鯱は毒と一緒に風を食う(43)

 泣きじゃくる青年を前にして、風をまとった幸善は手を拱いていた。隙だらけと言えば隙だらけなのだが、泣きじゃくる相手を急襲するほど、幸善の心は残酷にはなれない。

 それはフェンスやドッグも同じらしく、困惑した顔の幸善を見やる二人の表情も困惑に包まれていた。


 手を拱く理由はそれだけではなかった。


 今、痛みに涙を流す様子だけでなく、運命の輪の行動の全てが幸善の理解の及ばないものだった。


 動物を毒殺することも、妖怪であるセバスチャンを毒殺したことも、人間である牧場主を毒殺しなかったことも、そうかと思えば過去に人間を毒殺していることも、全てが幸善の理解の範囲外の行動だった。


 その理由の一端をフェンスやドッグに説明していたが、幸善は雰囲気から二人が理解できないことを言っていると分かっただけで、運命の輪の言葉として聞いたわけではない。


 それをここで知りたい。その思いが幸善の心の中にはあって、それが幸善の攻撃の手を止めさせる理由の一つになった。


「痛みを理解できるなら、どうして平然と動物を殺せるんだ?」


 幸善は怒りを噛み殺しながら、睨みつけるように青年を見た。

 その言葉を聞いた青年は途端に泣くことをやめて、涙で濡れた顔を不思議そうに傾けている。


「何を言っているの……?」

「何って……動物の…あの羊達の苦しみだって理解できるだろう?どうして、あんな方法で殺せるんだ?」

「どうしてって……別に自分は痛くないし……」

「はあ?」

「自分自身じゃないから、他の動物がいくら苦しんでも、関係ないし……そんなの気にする理由がない……」


 涙で濡れそぼった顔を不思議そうに変えたまま、青年は小さく笑みの籠った声を漏らした。


 それを聞いた幸善は青年を睨みつけたまま、愕然とする。青年の言葉は意味として理解できても、その気持ちまで理解できるものでは到底なかった。


「自分が苦しくないからって……苦しむ姿を見ても何も思わなかったのか?」

「いいや……ちゃんと興奮するよ……」

「興奮……?」

「そう……苦しんで、今にも死にそうな瞬間って……普段は見せない顔を…見せるんだよ……そこでしか見られない表情……それを晒しながら、情けない声を上げている……それを見ていたら、自分の手の上に全部が収まっているようで……堪らなく、興奮するよね!」


 次第に声を荒げながら、青年は力説した。それも幸善には到底理解のできない考えを。


「妖怪であるセバスチャンを殺したのは?」

「妖怪……?ああ、いたんだ……」

「いたんだ?気づかなかったのか?」

「だって、必要なのは声と表情と苦しむ身体くらいで、後は興味ないから……」


 心の底から楽しむように、引き笑いを漏らす青年の姿を前にして、幸善は言葉を失った。怒りも湧いてこなかった。


 こういう人もいる。そう言ってしまえば終わりかもしれないが、その当然の事実を幸善は考えてこなかった。


 忘れていた。全部と分かり合うことの難しさを。


 妖怪とか、人型とか、そういう話ではない。

 人間として、人間同士で分かり合うだけでも、こういう壁は存在するのに、どうして、自分はそれを考えなかったのだろうか。幸善は今更ながらに疑問に思った。


「あの牧場主をどうして生かしたんだ?記憶を消す余裕があるなら、始末することもできただろう?」

「狙いじゃなかったし……面倒なことは知っていたし……それにあれでも時間が経てば苦しむし……それでいいかなって……」

「何だ、それ……?」


 幸善は既に青年の言葉の理解を放棄していた。理解しようとしても、理解し切れないと思ったこともそうだが、理解しようとして、理解できなかったと明確な事実を残すことも嫌だった。


 自分自身の考えが甘かったと、その事実を理由に認めたくないと幸善は思った。

 それは皇帝と交わした約束を反故にする行いに等しい。少なくとも、幸善はそう感じて、それを認めるわけにはいかなかった。


 この理解の及ばない相手でも、幸善は分かり合えると証明する必要がある。その責任感に駆られ、幸善は表情を引き攣らせる。

 とてもじゃないが、思う気持ちとは裏腹に自信は湧いてこない。


 そう悩んでいたら、青年が目の前で涙を拭い始めた。眼鏡を持ち上げて、その隙間から涙を路地に捨てるように手を振るっている。


「ねえ……痛くしたんだから、痛くしても仕方ないよね……?」


 そう青年が質問する声を聞きながら、青年の涙が落ちる先を目にして、幸善は気づいた。


 振り払うように拭い去られた涙は路地に落ちて、その路地の一部に小さな穴を開けていた。


 それ自体は虫が一匹通れるくらいのとても小さな穴だが、それを作り出したのが涙であり、その涙に含まれるのが相手の妖術だとしたら。

 幸善がそこまで考えたところで、青年の身体は動き出し、路地を通り抜けるように突風が吹いた。

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