猿の尾は蜥蜴のように切れない(3)

 登校直後に教科書とノートを広げて、黙々と勉強を始めた相亀は、常軌を逸していると言えた。昨日までの相亀からは考えられない行動に、椋居むくい千種ちくさ羽計はばかり緋伊香ひいかは心配を通り越して、軽く引き始めていた。どこかで頭を打ったのかもしれないと思い、椋居が相亀の後頭部をこっそりと見てみるが、奇妙なことに頭を打った痕は見つからない。


 もしかしたら、正気で勉強を始めたのかと思ってしまうが、相亀の普段の振る舞いを考えていると、一心不乱に勉強を始めるとは思えない。少なくとも、休み時間は休むはずだ。


 椋居や羽計が心配している間も、相亀の手は止まっていなかった。机の上に広げられた教科書には英語がびっしりと書かれている。相亀が最も苦手としている教科のはずだ。クラスの担任が英語の教師ということもあり、明らかに授業は受けやすいはずなのだが、相亀は英語をほとんど理解できていなかった。流石にアルファベットを全て言うくらいはできるし、数字も全て数えられるはずだが、曜日を言えるかどうかになると怪しくなってきて、一月から十二月まで英語で言うことはできない。それくらいの英語力しか相亀にはない。


 試しに後頭部を叩いてみたら、ぶつかった拍子に変化した回路に、何かしらの変化が加わり、元の相亀に戻るかもしれない。そう思った椋居が手元にある物の中で、唯一相亀の頭を殴るのに使えそうな水筒を掲げた。少々硬くて、普通の人間なら死んでしまう可能性があるのだが、相亀なら大丈夫だ。きっと生き返る。


 椋居が振り下ろそうとした直前、その教室に幸善達がやってきた。相亀の頭に水筒を振り下ろそうとする椋居に気づき、東雲が相亀に叫んだ。


「危ない!」


 その一言に流石の相亀も顔を上げ、自分に迫る危機に気づいた。咄嗟に手を伸ばして水筒を受け止め、振り下ろしてきた椋居を信じられないものを見る目で睨みつける。


「何するんだよ!?」

「いや、殴ったら元に戻るかなって思って…」

「死ぬだろうが!?」

「いや、お前なら生き返るだろうと思って…」

「え?俺、お前の中だと人間じゃないの?」


 衝撃の事実に驚愕する相亀に、椋居が説明する暇もなく、教室の中に幸善達が入ってきた。椋居の襲撃が未遂に終わり、ホッとしたのも束の間、幸善達は相亀の机に置かれた教科書やノートに気づき、驚いた顔をしている。


「どうしたんだ?休み時間だぞ?」

「うるさいな。茶化すだけなら帰れよ」


 幸善の疑問を適当に流し、相亀が再び教科書とノートに向き合い始める。その集中力は凄まじく、ちょっとやそっとのことでは動じないと思わせるほどだ。


「大丈夫?七実先生と一緒に病院に運ばれたって聞いたし、どこか悪いんじゃ…」


 そう呟きながら、相亀の身体に東雲が触れた瞬間、相亀は全身に電気を流れたように飛び起きた。自分の席から大きく離れて、教室の壁にべったりと張りついている。


「急に触るなよ!?」

「え…?何…?」

「あ、いや、いつもの発作だ。あれは気にするな」


 そう言いつつ、机の上に置かれた教科書やノートを見ようとした幸善の隣で、急に悪い笑みを浮かべた羽計が、相亀に近づいて相亀を揶揄い始めていた。さっきまでの集中力はどこに消えたのか、顔を茹で蛸のように真っ赤にしながら、相亀は必死に羽計に抵抗している。どうやら、いつもの相亀であることは間違いないようだと、幸善だけでなく椋居も思った。


「何で急に英語の勉強を?そんなに成績が悪いのか?」


 教科書を手に取りながら、幸善が不思議そうに呟いた。幸善の記憶が間違いないなら、相亀のクラスの担任は英語を教えているはずだ。そこで何かやり取りがあったのだろうかと思ってみるが、相亀ではなく椋居が否定するようにかぶりを振る。


「確かに弦次の成績は悪いけど、それはずっとそうだから、今更勉強しても取り返しがつかないよ」

「さらっと酷いこと言うな…」


 流石の幸善も同情していると、命からがら戻ってきた相亀が、幸善の手から教科書を奪い取った。


「もう放っておいてくれ!俺は忙しいんだ!」

「何で急に英語を勉強し始めたんだよ?」


 怒った様子で席に座る相亀を見ながら、幸善が駄目元で聞いてみたところ、座った状態のまま相亀の動きが止まり、小さく一言だけ返ってきた。


「突然のデレが来た」

「はあ?」


 英語の前に日本語を勉強するべきだと幸善は思った。

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