鯱は毒と一緒に風を食う(17)
発端は幸善の帰国が想定よりも少し先延ばしになりそうだという話からだった。
日本に連絡し、迎えが来るところまでは無事に決まったのだが、そこから幸善が日本に帰るためにいくつか必要な手続きが存在すると判明したらしい。それも少々面倒な手続きだそうだ。
何故、そうなったのかと言えば、幸善がこの場所にいる理由が原因だ。
幸善はキッドの島で鷹人間と遭遇し、鷹人間の妖術に飛び込むことでイギリスにやってきた。
つまり、意図せぬ形とはいえ、不法入国したことになる。当然のことだが、パスポートも持っていない。
その状態の幸善が日本に帰るためには、そういう手続きも当然必要ということらしく、それを待つ期間、幸善はC支部に滞在する必要があるということだった。
元より迎えが来るまで滞在するつもりだったのだが、その期間が延びてしまったということだ。幸善の感覚から言えば、休みが延びたようなものだ。
特に悪いことはないと幸善は思いたかったが、そこでアイランドが持ち出した話がリングからの連絡にあった仕事の話だった。
C支部の抱えている仕事のいくつかを手伝わないかという話だ。
当然、休みを与えられたと思っている幸善は断ろうと思ったが、アイランドはそこまで読み切っていたように、リングに言葉を預けていたようだ。
幸善が断りの一言を言おうと思った直前、アイランドの言葉を思い出したリングが言ってきた。
「えっと……タダで飲み食いしたい…なら……構わないって…言ってました……」
「…………ん?」
断りの言葉が喉元まで上がっていた幸善は言葉を詰まらせ、もう一度、聞き返すようにリングに言っていた。
当然、返ってくる言葉は何一つ変わりなく、さっきのものと同じだ。聞き逃したわけではないので、その言葉の内容は良く理解できている。
理解できているからこそ、幸善は思わず聞き返し、もう一度、放たれた言葉に閉口した。
要するに、C支部に滞在する期間、幸善の身の回りの世話はしてやるが、そのための対価を払うつもりはないのかという一種の脅しだ。
厚顔無恥なら気にする素振りも見せないような脅しだが、品行方正が服を着ているような幸善からしたら、その脅しは痛いほどに聞く。
顔に泥を塗るどころか、今後の幸善の評判にも関わりかねない一件だ。断る余裕があるはずもない。
幸善は返したくなった踵を踏み止めて、リングに匹敵するほどの消え入りそうな声を漏らした。
「その……仕事の…内容は……?」
「受けて……いただけるんです…か……?」
「いや、やっぱりね。内容くらいは先に聞かないと、その判断もできないから。受けると決まったわけじゃないけど、内容くらいはね。まだ受けるとは言ってないからね?」
入念に確認するだけだと伝え、幸善は与えられる仕事の一例を聞き出そうとした。
逃げ道は既に潰されているが、自分から死地に突っ込むことはしたくない。仕事の内容次第では断る意思を見せることで、最低限の選択を与えられる立場に立ちたい。
その思いが幸善にはあったのだが、幸善の希望とは裏腹にリングはしばらく仕事の内容を教えてくれなかった。受話器の向こう側から戸惑いだけが音になって聞こえてくる。
「えっと……どうしたの?」
「あの……その……内容を…聞いてなくて……呼び出すように言われた…だけで……」
「ああ、そういうこと。それなら、先に確認してもらっていい?内容を先に聞きたいって」
「えっと……はい…分かりました……」
リングはそう言い残し、一旦、リングとの通話は切れた。
まさか、休みを貰ったと思っていたら、その時間が仕事に変わるとは思ってもみなかった。確かに幸善は観光に来たわけではないが、それにしても異国の地で、労働を与えられるとは微塵も考えないだろう。
ただ流石に危険と思う仕事や報酬が釣り合っていないと感じる仕事は断ろう。それくらいの予防線を張る権利くらいはあるはずだ。
幸善がそのように考えていたら、意外にも早く部屋の受話器が鳴り出した。
恐らく、リングからの連絡だろうと思って出ると、向こう側から想像していた通りの消え入りそうな声が聞こえてくる。
「あの……その……聞いてきました……」
「ああ、ありがとう。それでどんな仕事だった?」
「それが……受ける場合にしか…話さないと……言ってました……」
「はい?」
「仕事を受ける…つもりなら……呼び出しを…受けるようにと……そこで内容も伝える…と……言ってました……」
「ああ、なるほどねぇ……」
幸善は納得したように小さく何度も頷きながら、その場にゆっくりと膝をつき、愕然とした気持ちを表現するように大きく項垂れた。
逃げ道どころか、居場所すら潰されて、幸善は決まった方向に押し出されるしかなかったようだ。ピンボールの玉になった気分だ。
「それで……どうしますか……?」
静かに優しい聞き方ながらも、幸善には冷酷にしか思えない質問をリングが口にし、幸善はリングからは見えないことが分かっているのに小さく頷くしかなかった。
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