希望の星は大海に落ちる(22)

 訓練という呼称が仰々しさを増していたが、重力への適応訓練は、要するに重力の発生した部屋で一定時間生活するというものだった。


 本部内にも同様の部屋自体はあるのだが、全てがそういうわけではない。地上に戻った時に無重力状態がないことに違和感を覚えないように、今の内に身体を調整することが目的らしい。


 それだけでいいのかと幸善は思ったが、仙人である幸善や御柱なら、それ以上の調整は過剰であるらしく、奇隠の本部ではこれだけの訓練しかしていないらしい。必要以上にしてしまうと、逆に感覚が狂って、地上で真面に歩けなくなるそうだ。それはそれで体験してみたい気持ちもあったが、目が回った時と同じと説明されて、その欲も急速に収まった。


 その訓練を特定の部屋で済ませて、幸善と御柱が部屋を出たところのことだった。


 ポールに挨拶ができなかったと聞き、御柱は眉を顰めていたが、怒り出すことはなかった。ポールが忙しい人であることは分かっていたから、タイミング次第では難しいと考えていたのだろう。帰るまでに済ませるように言われ、部屋を出た直後にも御柱は幸善にそれを伝えてきた。

 それに首肯し、幸善がポールを探しに移動しようとした直前、タイミングを見計らったように姿を現した人物がいた。


 それがポールだった。


「おおっと!急ぎでどこかに?」

「い、いや、ポール様を探しに行くところですよ?」


 幸善は唐突に現れたポールに驚きながらも、ポールと無事に逢えたことに小さく喜びを覚える。


「ああ、そうだったの?帰ると聞いたから、その前に話しておこうと思って」

「俺も同じです。ここではいろいろとお世話になりました」

「別に私は大したことをしてないけどね。それよりも、日本に帰っても気をつけてね。いろいろと不穏になってきたみたいだから」

「不穏?」


 人型がQ支部に侵入したことは既に聞いていた。それによって被害は確かに出たが、Q支部への侵入自体は無謀なことだ。人型が何度も同じ手段――それも無謀な手段を選ぶとは思えないので、次は別の行動を始めるだろう。


 それ自体から不穏さを感じ取ることはできないと思ってから、幸善はまさかと気づいた。


「もしかして、人型が何か新しい動きを始めているんですか?」


 幸善の質問にポールは目を丸くし、幸善の背後でポールを発見したのか、こちらに近づいていた御柱を見やった。


「もしかして、何も?」


 その質問に御柱は首肯してから、「帰りが長いので」と説明した。


「ああ、そうか」

「どういうことですか?何があったんですか?」

「帰りに聞くといいよ。どちらにしても、詳しいことは何も分かってないんだ……いや、違うね。どちらにしても、何も分かってないんだ。こっちが正解だね」


 ポールの不穏な言葉に幸善は表情を引き攣らせるが、ポールと御柱の口はかなり堅そうだった。追及しても話してくれそうにないと分かれば、どれだけもやもやとした気持ちを抱えていても、幸善は口を噤むしかない。


「今の君は大きな壁の一つを乗り越えたんだ。何が起きても大丈夫。私はそう思っているから、君も自分の力を信じるように」


 話の転換は急に行われ、ポールがそう告げ出したことに幸善はゆっくりと頭を下げた。


「はい。ありがとうございます」

「ああ、それと話しておこうと思って、すっかり忘れていたんだけど、君はラスと話した?」

「ラス?序列持ちのラスさんですか?」


 L・S・ダーカーの顔を思い出しながら、幸善はそのように聞いた。それ以外にラスと呼ばれている相手は思いつかないと思っていたら、間違いなかったようだ。ポールは首肯した。


「何か話した?」

「まあ、いろいろと。ラスさんが妖怪に対して、どう考えているかとか、そういう話をしました」

「ああ、そうなのか……なら、頑張ってね」

「はい?頑張る?」

「彼はね。多分、誰よりも脆いから。いくつもブレーキが必要なんだよ」

「ブレーキ?」


 ポールが何を伝えたいのか分からなかったが、肩をぽんぽんと叩きながら、柔らかな笑みを浮かべるポールに、幸善は「ちょっと意味が分かりません」と言うだけの度胸がなかった。困惑を隠すことなく、仕草に表しながら首肯すると、ポールは納得したように踵を返す。


「じゃあ、次の仕事があるから。またね」

「ありがとうございました」


 御柱が頭を下げる隣で、幸善はポールの発言が引っかかったままだった。


(脆い?ブレーキ?何が言いたかったんだ?それに日本で何があったんだ?)


 そう首を傾げる幸善の背を、後ろから御柱が軽く小突き、幸善は慌ててポールに頭を下げて、お礼の言葉を再び口にするのだった。

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