死神の毒牙に正義が掛かる(15)

 当たり前のことだが、葉様は冷静ではなかった。命を取られる瞬間に冷静でいられる人間はいない。それに加え、葉様は全身を毒で侵され、頭そのものがうまく働いていなかった。


 そのこともあり、虎頭が口を開いてから、数秒間、葉様の理解が及ばない時間があった。


 目の前で何が起きているのか分からないどころか、目の前で何かが起きているのかも分からない。葉様の意識はそこにあるが、そこにある物を一切認識していなかった。


 だから、頬に温もりを感じるまで、そこで何かが起きていることに気づかなかった。


 気づいた時には葉様の上で暴れるように、虎の頭が大きく左右に揺れていた。低く唸るように漏れ出る声は苦しんでいるように聞こえる。

 何が起きているのか理解できないまま、葉様は頬の温もりを確かめるために、手を動かそうとした。


 しかし、葉様の腕は思い通りに動かなくなっていた。何が原因なのか、思い当たる節が多過ぎて分からない。


「―――!?」


 微かに遠くから誰かの声が聞こえた気がした。誰の声かは分からない。何を言っているのかも分からない。ただ声のように聞こえる音が聞こえた可能性もあるのだが、それは何となく、声で間違いないと葉様は思った。

 そうしてから、虎頭が漏れ出るように唸っていることを思い出す。


 そうか。本当は叫んでいるのか。そう気づいたのは、視界がぼやけていることを意識したからだった。これまた思い当たる節が多過ぎて、どれが原因かは分からないが、既に感覚が衰えているらしい。もしかしたら、辛うじて保っている意識も関係しているのかもしれない。


 どちらにしても、もう何かをできる状態ではない。刀は握れない。目はちゃんと見えない。耳も遠くなった。満身創痍を辞書に載せるなら、今の葉様の姿を挿絵にしたいくらいだ。これほどまでに満身創痍を表している状況もなかなかない。


 虎頭が何を苦しんでいるのか分からないが、既に葉様が何かをできる状況ではなくなった。後は死が緩やかに訪れるか、急に目の前に現れるかの違いだ。


 もう終わった。葉様はそう思った。


 そこで瞼を閉じなかったのは、目の前で煌めくものを見つけたからだった。それが何だか幻想的に見え、それを最期の光景とするのに最適な気がして、葉様はその光を追うように目を向けた。


 最初、その形が何なのか、葉様の目ではハッキリと分からなかった。何か分からないが、ただ煌めいている。それだけの思いだったが、次第に形が浮かび上がってきた。

 それは視力が回復したわけではない。毒の影響なら、寧ろ視力は衰えるはずだ。


 それなのに形が分かったのは、その形を何度も見た記憶があったからだ。何度も、何度も、葉様はそれを見てきた。その記憶に引き摺られるように、葉様はただ手を伸ばした。


 葉様にできることは少ない。何かを掴むことは難しい。腕もほとんど動かない。細かい動きは絶望的で、何かに触れても感触は曖昧なものだ。

 だが、雑な動きでいいのなら、まだ少しくらいは動かせる。葉様は何とか手を伸ばし、虎の頭の先で煌めく物に触れようとする。


 しかし、虎の頭は大きく振り上げられ、手がそこまで届かなかった。


 届かない。その事実に今度こそ諦めかけた瞬間、暴れていた虎の前足が移動した。さっきまで押さえつけられていた葉様の足がその瞬間に解放される。


 幸いなことに葉様の足はほとんどが押さえつけられていただけで、目立ったダメージはなかった。もちろん、毒による影響で完全とは言えないが、腕と比べると遥かに自由に動かせる。


 葉様は思いっ切り、虎頭の腹を蹴り上げた。仙気も何もない本当にただの蹴りだ。ただの妖怪でも効かないくらいに弱々しい攻撃だ。


 それでも、暴れている虎頭の体勢を崩すくらいの力はあった。踏み外したように虎頭がこちらに倒れ込んでくる。その姿を見ながら、葉様は腕を上げた。


 拳は既に握れない。できることは雑に振り抜くくらいだ。子供が駄々を捏ねるように、ただ腕を振るうことが精一杯だ。

 その精一杯を葉様は虎の頭の先で煌めく物にぶつけた。


 その瞬間、虎の頭からさっき感じた温もりが吹き出してきた。葉様は振るったまま、腕を地面に打ちつける。痛みはもう感じないほどに腕はボロボロだった。


 虎頭が葉様を綺麗に避けるように倒れ込んだ。あのまま乗られていたら潰されていたかもしれないが、その最期は免れたようで、葉様は少しだけホッとする。虎頭が動かないことを確認した葉様の視線の先では、葉様の刀が煌めいている。


「――君!?」


 再び誰かの声が聞こえた気がした。それが誰の声なのか確認する前に、葉様は抗いようのない重さに襲われ、瞼を開き続けることができなくなった。

 ゆっくりと瞼を閉じる。その寸前、さっき見た顔を見た気がした。

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