熊は風の始まりを語る(29)
人に物を頼むために幸善も頭を下げることはあるが、皇帝のそれとは重さが比べ物にならないくらいに違うことは分かっていた。今の皇帝には三頭仙としての立場もある。その頭は簡単に下げられてはいけないものだ。
それでも、幸善にお願いするために、その頭をベッドにつきそうなほどに深く下げた。その意味が分からない幸善ではない。
幸善は動揺の代わりに唾を飲み、一度、深く息を吸い込んだ。
適当な返事は許されない場面だ。
「どうして、俺にそれを頼むんですか?」
奇隠で最も強い仙人が幸善なら、それを頼む理由も分かるが、幸善はその足元にも及ばない。
愚者を止める、と仮に約束しても、それを果たせるか分からない相手に、皇帝が簡単に頭を下げるとは思えない。
そこには相応の理由があるはずだ。
「言った通りだ……俺はNo.0を本当は止めたいと思っている……」
止めたい。改めて皇帝が口にしたことで、幸善はその言葉にある違和感に気づいた。
奇隠がこれまで人型を相手にしてきた結果と、その言葉は少し違っている。
「止める、ということは、愚者を生かしたいと思っているということですか?」
人型が人間を殺そうとするように、奇隠も今は人型を殺そうと動いている。そのために情報を引き出す必要があるなら生かすこともあるが、無理に生かそうとするほど、奇隠の頭はおめでたくない。
「今の人型に優しさは通用しない……もしも、その行動を止めるとしたら、その命を奪うしかない……」
「それなら、俺に愚者を殺して欲しいという意味ですか?」
もしも、そういう意図で言ったのなら、幸善は了承することができない。それは幸善の思いとは相反する考えだ。
そう思っていたら、皇帝が弱々しく、かぶりを振った。
「頭ではそう分かっているのだが…どうしても、それを心の底から思うことができない……」
「つまり?」
「さっきも言っただろう……?もう親しい友人を喪いたくないんだ……」
皇帝にとっての親しい友人。その一人がテディだったように、そこには当然のように、愚者も含まれている。
だからこそ、皇帝は愚者を殺して欲しいとお願いするのではなく、止めて欲しいと頼んできたのだ。
そこにほんの少しでもチャンスを残したかった。
そして、それを託せる相手は幸善しかいなかった。
愚者の血を継ぎ、愚者と最も近しい存在であることもそうだが、それ以上に妖怪の声を聞き、妖怪と分かり合おうとする仙人は幸善の他にいない。近い存在は多くいても、愚者のことを頼む相手となれば、幸善以上に最適な相手はいない。
「無茶なことを言っているとは分かっている……だが、どうしても…このような姿になったとしても、その願いは変わらないんだ……」
皇帝が今の姿になってしまったのは、愚者との戦いが原因だ。そこに恨みが存在してもおかしくない関係だが、皇帝は愚者を助けたいという気持ちを捨てられずにいた。
その願いが無茶なことは本人も、それを託された幸善も分かっていたが、幸善の答えは既に決まっていた。
「わざわざ俺なんかに頭を下げて頼んでもらったところ申し訳ないですけど、それは無駄でしたよ」
「そ、そうか……いや、仕方ないことだ……忘れて……」
「違いますよ。断るつもりじゃなくて、頼まれるまでもなく、俺は愚者を止めるつもりでいましたから」
「な、本当か……?」
「はい。テディから話を聞いて、それで思ったんですよ。人間と人型が仲良くしていた世界があるのなら、俺はそっちの方がずっといいって。ちゃんと話し合えるのに分かり合えないなんて、そんなことは悲し過ぎるから。考えとか思いとか、そういうところがすれ違っているなら、それをなくして、ちゃんと一緒に生きていけるように俺はしたいです」
幸善の考えは最初から変わっていない。人間と妖怪が共存できる世界を作りたい。その妖怪に人型が含まれないはずがない。
その気持ちは人間と人型がまだ隣り合っていた時代の話を聞き、より強くなっていた。
皇帝に頼まれずとも、幸善は愚者と分かり合いたいと思っていた。
「意地でも止めますよ。人間とか世界とか、そういうものを恨んだままなんて、きっと久遠さんも泣いているから」
幸善の覚悟を決めた表情を見て、皇帝は涙をこらえるように微笑んだ。
「ああ、そうか……本当に君は…あの二人の血を引いているんだね……」
そう呟いてから、再び皇帝は頭を深々と下げ、低く染み入るような声で、お礼の言葉を口にした。
「ありがとう……君に逢えて、良かったよ……」
「俺もここに来れて、貴方と話せて良かったです」
迷いはなくなった。幸善は自分の信じたことを貫くだけだと改めて思えた。
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