死神は獣を伴って死に向かう(10)

 酸素濃度の低下は正常な思考を奪ってしまった。そのことに気づいた時には、既に手遅れの状態に陥り、幸善は何が起きたのか正常に判断するまでに時間を要した。


 体育館内の酸素の減り方は異常とも言えた。前回のアメンボのことを考えると、比べ物にならない速度だ。

 それは幸善が動いているから、という理由もあるかもしれないが、それだけでは説明がつかない。


 恐らく、個体の持つ妖気が強いか何かの理由で、妖術そのものの威力が比べ物にならないのだろう。それはアメンボの時に僅かな切り傷しか作れなかった現象が、体育館の壁や床を深く傷つけるほどのものに変わっていることからも予想がつく。


 これが人型の力と思うべきなのか。それとも、アメンボの力だったから、あの時は助かったと思うべきなのか。

 どちらにしても、今の幸善には判断できそうになかった。


 幸善の視界の中で項垂れたノワールが瞼を閉じた。

 傍から見ていると、本当に眠ったように見えたが、実際のところは閉じたくて閉じたわけではないのだろう。


 ノワールは既に限界だった。


 そのことを悟っても、既にノワールの意識はそこにあるのか曖昧な状態だ。今すぐにここから連れ出さないと助からない。


 しかし、それは今の幸善には難しいことだ。それを既に幸善は悟っていた。


 頬に伝わる冷たい感触。


 最初は何かと思い、それがであることに気づくまで、少しの時間がかかった。


 どうして、床が頬に触れているか。


 その答えは簡単だ。幸善がからだ。床にぐったりと寝転んでいるから、肩に乗っていたノワールが項垂れる姿まで見えた。


 では、どうして寝転んでいるのか。


 その答えが分かるまで、更に時間が必要だった。酸素濃度の低下により、正常な判断ができなくなっていた幸善には、何が間違いだったか分からない。

 それに加えて、ほんの少し前まで自分が何をしていたのか分からないとなると、その答えを導き出せるはずもない。


 結局、死神が幸善の頭のすぐ近くに立つまで、幸善はそのことを思い出せなかった。


 自分を見下ろす死神の存在に気づき、幸善は何とか起き上がろうとして、そこでようやく、自分の身体に一切の力が入らないことに気づいた。


(あっ…)


 そう思って口に出そうとした声も、うまく口から出なかった。


 どうやら、幸善のらしい。


 動きたくても、全身を襲う強烈な脱力感に、幸善の身体は一切動こうとしない。


 さっきまでの自分が何をしていたのか、ハッキリと覚えているわけではないが、時間をかけられないことに気づき、一心不乱に死神を倒そうと仙術を使ったに違いない。

 そんなことをしたら、仙気が尽きることなど目に見えているが、頭の働いていない幸善には気づかなかったようだ。


 案の定、仙気がつきて、こうして寝そべることになってしまった。


「いい具合だ」


 近づいてきた死神が幸善を見下ろして、そう呟いた。

 何がいい具合だと聞き返したかったが、動いてくれない口ではうまく聞き返すことができない。


「犬は邪魔だな」


 そう言って、死神がノワールをサッカーボールのように遠くに蹴り飛ばした。ノワールは僅かに苦悶の声を漏らし、遠くに飛んでいくが、それで意識が戻ることはないようで、未だに曖昧なまま、飛んでいった先で転がっている。

 その姿に幸善は怒りを覚えたが、ノワールを蹴り飛ばした死神に、幸善が何かできるほどの力はなかった。


 憎い。悔しい。許せない。


 様々な感情が渦となって幸善の中で回り続ける。それを吐き出すこともできないまま、ただ感情だけが膨大していく中で、だんだんと幸善の意識も遠退き始めた。


 憎い。悔しい。許せない。


 感情だけを残して、幸善が暗闇の中に埋もれようとする。


 その直前、急なが体育館内を響き渡った。


 何が起きたのか、咄嗟には分からなかったが、それは死神も同じことのようで、驚いた顔で体育館の出入り口に目を向けていた。朦朧とした意識の中では、音がどこから聞こえてきたのか分からなかったが、どうやら、そこから聞こえてきたらしい。


 何が起きたのだろうか、と思った幸善が顔を動かすと、さっきまで出入り口を塞いでいた堅固な風に、一つの縦に長いが開いていた。


「今のは何だ?」


 そう呟きながら、死神がその穴を修復しようと思ったのか、その風に手を向けた瞬間、その風の向こうから、二つのが飛んできた。


 最初の穴と合わせて、それで人が通れるほどに穴が開いた直後、その風の向こうから幸善も聞いたことのある声が聞こえてくる。


「あらら、どうやら当たりを引いちゃったみたい?」


 その一言で誰か分かった幸善は混乱した。


 どうして、この場にこの人がいるのか不思議で仕方がなかった。


「誰だ?」


 どうやら、その人が誰なのか知らなかったらしい死神が、入ってきたにそう聞く。


 その声を聞くなり、その人は小さく笑い声を上げた。


「通りすがりのミステリアスで綺麗なお姉さんです」


 秋奈あきな莉絵りえの一言に幸善は思わず笑ってしまった。

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