影は潮に紛れて風に伝う(35)

 何となく、頭の奥に靄のかかった感覚だけがあって、それが気になる瞬間もあった。


 しかし、その心の奥に残った疑問も、キッドの登場で掻き消えて、どこかに行ってしまっていた。考えることをやめたというよりも、考える余裕がなくなったと言えるだろう。


 それを不意に思い出すことになったのは、眼前に迫った鷹人間の腕を掴んだからだ。自分だけが気づいた武器を活かすために、この状況で最適と言える行動を取ったつもりだった。


 鷹人間が気づく前に動かなければいけないという焦りもあって、詳細な確認を怠った部分はもちろんあるだろう。

 ただそれにしても、幸善のイメージする光景の千分の一くらいは現実のものとなる予定だった。


 その予定が見事に崩れ、幸善は鷹人間の腕を掴んだまま、顔を見合って固まることになった。腕から脇にかけて、袖のように伸びる翼を改めて実感し、その奇妙さを今更ながらに確認する余裕が必要もないのに生まれる。


「何をしている?」


 鷹人間が口を開いて質問を投げかけ、幸善は返答に困った首を傾げた。


 直後、幸善は鷹人間に蹴り飛ばされ、サッカーボール宜しく森の中を吹き飛んだ。森を形成する木の一本に衝突し、軽くバウンドして地面に落ちる。痛みによって鈍く腕は痺れ、地面に触れた場所を境に前後左右の感覚が薄くなっていく。


 幸善は地面に頭を押しつけ、無理矢理に上体を起こしながら、自身の想定したことが何も起きなかったことを疑問に思っていた。


 望む通りの状況が完璧に作り出せるとは思っていなかったが、鷹人間の不意を作るくらいの成果は見出だせたはずだ。

 それすらもなかったことが幸善には不思議で堪らない。


 こちらの想定よりも早く、鷹人間が起きた現象を理解し、それに対抗できる策を持ち込んできたのか。不意に思いついた可能性に頭を擡げ、幸善は鷹人間を見やったつもりだった。


 だが、鷹人間は幸善の意識の外側で、既に自身の姿を消していた。幸善の頭の中には、眼前に現れる鷹人間のイメージが浮かび、咄嗟に腕を構えようとする。


 その動きを無駄なものと言わんばかりに、幸善の背後から生温い風が吹き抜けた。振り返ることなく、幸善は何が背後にあるのか理解できている。

 既に数度見せられた鷹人間の移動のイメージが強く、幸善は咄嗟に思い出せなかったのだが、鷹人間が最初に見せた移動はそれではなかった。


 幸善の背後で開いた空間から、鷹人間の腕が伸びてきた。幸善の身体を押さえつけるように鷹人間が幸善の身体を掴み、幸善は抵抗しようとその腕を掴もうとする。


 まるでそれを拒むように、鷹人間が咄嗟に幸善の身体を振り上げて、その場に伏せさせるような動きで地面に押しつけてきた。幸善が抵抗のために伸ばした腕は宙を舞って、押しつけられる身体の向くまま、地面に不自然に拘束される。意図せぬ形で締め技を食らったような状態だ。


 幸善が激痛に悶え、言葉すら発せられなくなっている間に、さっきまで幸善の背後だった場所に空間を開いた鷹人間は、そこから半身だけを出した状態のまま、幸善の身体を引き摺り込もうとしてきた。

 まるで新手の妖怪だと思ってから、何も間違っていないことに幸善は気づく。


 鷹人間に引き摺られ、幸善の足が開かれた空間の中に飲み込まれた。足首から先が空間の向こう側に消え、こちらからは視認できなくなる。感覚的な変化はないが、変化のなさが恐ろしい。


 そこから逃げ出そうと身体を捩るほどに、拘束された幸善の腕は締めつけられ、幸善は痛みで目を白黒させることになった。完全にマウントを取られた体勢からの脱出は難しい。


 そう考えている間にも、幸善の身体は開かれた空間に飲み込まれ、既に下半身が空間の向こう側に行こうとしていた。身体の感覚に変化は未だない。向こう側に消えた半身を動かせる感覚こそあるが、本当に動かせているのかどうかの確認を取る方法がこちらからはない。


 そのように思った直後、幸善が適当に振り回した足が何かにぶつかって、幸善の足に衝撃が伝わった。鷹人間の身体かと思ったが、そうだとしたら位置関係がおかしい。幸善から見て、左手側に鷹人間は立っているのに、振り上げて何かを蹴った足は右足だ。それも右方向に振るった直後の衝撃だった。


 これは何かと思い、軽く足を押しつけてみると、少し形状が変化したように感じられた。張ったテントの壁に触れた感覚に似ている。適度な反発が足を押し返してくる。


 その感覚に疑問を覚え、腕に激痛に顔を歪め、鷹人間の行動に一切の抵抗ができないまま、幸善は鷹人間の手によって、開かれた空間の向こう側に完全に引き摺り込まれた。


 上半身が持ち上げられるように引っ張られ、無理矢理に立たせられたと思った瞬間、生温い空気が幸善の肌を撫でて、全身を寝袋のように包み込んでくる。

 その気持ち悪さに鳥肌を立たせた直後、幸善の心の奥底にかかっていた靄の向こう側から、唐突に波のように記憶が流れ出し、幸善の頭の中を満たしてきた。


 それは幸善が忘れていたアメリカでだった。

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