憎悪は愛によって土に還る(15)

 アッシュの舌に驚いたのは相亀だけではなかった。ザ・フライも土の腕が崩れるとは思っていなかったようで、アッシュを警戒するように距離を取って、ショッピングモールの一階に戻っていく。

 その光景を見つめながら、相亀はさっきの光景を思い出し、何が起きたのか分析しようとした。


 ザ・フライの土の腕は何度も言うように柔いものではない。相亀の打撃を受け止めるほどに硬く、ちゃんと振り抜くことができたら、相亀に致命的な一撃を与えかねないものだ。

 その土の腕にアッシュの舌が絡まり、強く締めつけたと思ったら、締めつけに耐えられなかったように土の腕が弾けた。


 つまり、アッシュの舌は相亀の拳を超えるほどの力を持っていた。俄には信じがたい話だが、状況から分析するにそれ以外の理由を相亀は考えられなかった。


 相亀がザ・フライを相手するのに手間取っていた最大の理由が土の鎧だ。あの鎧を打ち破る方法がなく、相亀にはザ・フライにダメージを与える手段がないに等しかった。


 正確には、時間と犠牲を無視することでダメージを与えられるが、今の相亀にその手段を選ぶつもりはない。それ以外の解決法があるなら、それに越したことはない。


 その最大の障害となる土の鎧に、アッシュの舌が対抗できるとしたら、状況はそれまでの劣勢から一転したと言えた。


 ただし、そこには一つの問題がある。


 当然のことながら、相亀にはアッシュと意思疎通を図る手段がない。これが幸善ならアッシュと会話するだろうし、ある程度、仙人の事情を把握しているノワールなら空気を読んでくれるだろう。


 だが、相手はQ支部から逃げ出したアッシュだ。仙人に恐れ、怯え、舌を振るうことはあっても、協力してくれるとは到底思えない。

 味方に引き摺り込めれば、ザ・フライとの戦いに光明が見えるのだが、そのためにどう交渉すればいいのだろうか。相亀は話せないカエルとの交渉を考え、ひたすらに頭を悩ませていた。


 その間のことだ。アッシュは相亀の考えがまとまるまで待つことなく、階段の前から跳んで、ザ・フライが飛び出したばかりのショッピングモールの一階に出ていった。


「あっ、ちょっ……!?」


 アッシュの力を借りることで、ザ・フライに対応しようと考えていた相亀は慌てて手を伸ばし、飛び出したアッシュを呼び止めようとしたが、その動きよりも速かったのがザ・フライだ。


 土の腕を砕かれたことでアッシュを敵と認知したらしく、自身の周囲に土の塊を浮かべながら、アッシュを睨みつけていた。口元から呻き声に似た鳴き声を上げ、周囲の土をアッシュに向かって伸ばしてくる。


 アッシュの脅威は舌に集約している。相亀もそう思ったようにザ・フライも考えたようだ。舌に対応されない距離から攻撃すれば、一方的に仕留めることができる。


 その考えは正しく見え、相亀は焦った。アッシュがここで倒されたら、状況は逆戻りだ。ザ・フライに対抗する手段は未だになく、相亀は穂村を守りながら、捨てたはずの無謀な手段を回収するしかなくなる。


「おい、こっちに……!?」


 相亀が手を伸ばし、急いでアッシュを回収しようとした。


 その寸前のことだ。アッシュは迫る土の塊を前にして、空中を舐めるように舌を右から左に動かした。その舌から涎が飛び出し、迫る土の塊に絡まるようにまとわりつく。


 その直後、土の塊がアッシュに到着する前に、形を保てなくなったように自壊した。アッシュに手を伸ばし、アッシュを回収しようとしていた相亀に向かって、ばらばらになった土が水飛沫のように飛んでくる。


「うわっ!?何だよ!?」


 口の中に入った土を吐き出しながら、相亀は身体に飛びついた土を拭い、それを捨てようとした。


「痛っ……!?何だ?」


 土を振り払おうとした瞬間、手に謎の痛みが発生し、相亀は顔を歪めた。痛みに導かれるように手を見やって、そこに付着する土を発見する。

 それ自体は普通だった。アッシュの飛ばした涎が絡まっている以外、土におかしい点はない。


 だが、相亀の手はその土にかぶれたように焼け爛れていた。相亀が見ている間にも皮膚が溶け、痛みと共に広がっていく傷口に、相亀は慌てて袖口で土を拭い取る。


 そうしたら、痛みはそこで膨れることを止めたのだが、今度は土を拭った袖口の方に穴が開いた。さっきまでなかったのに、虫に食われたような穴が忽然とできている。


 その二つの違和感を目にし、相亀はふとアッシュが逃げ出した時の話を思い出した。相亀はほとんどを話に聞いただけだったが、その話とこれまでに見たアッシュの生態を思い出せば、ようやく納得できることも多い。


 そもそも、初対面の時からアッシュは異常だった。妖怪だとしても、人間の食べ物を与えられ、それを平然と食していた。それもカエルの体積以上の食事を数回だ。


 全て妖術が絡んでいた。納得できるだけの理由を見つけ、その妖術とザ・フライの妖術の相性を再度理解し、相亀はアッシュを見やった。


 状況は変化し、交渉は必要なくなった。ザ・フライがどちらも敵と認識する以上、アッシュもザ・フライは厄介な存在のはずだ。

 幸善でなくても、これは十分に協力関係に持ち込める。そこまで行けば、ザ・フライを倒す手段は既に相亀の頭の中にあった。


 ほんの少しの自己犠牲は含まれるが、それは椋居に対する贖罪ではない。穂村を巻き込み、不安を与えてしまったことに対して、ほんの少しの罰みたいなものだ。

 さっきまで相亀が考えていた手段と比べれば、この程度の犠牲は大したことではない。


 さて、やるか。相亀は改めて気を引き締め直し、呼吸の方法を確認するように大きく息を吸い込んだ。

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