死神の毒牙に正義が掛かる(8)

 蛍光灯から伸びる紐が目の前で左右に揺れていた。左から右へ、右から左へ、宙を漂う紐。それをじっと見ていると、それが気になって仕方なくなった。あの紐を止めたいと思い、必死に手を伸ばしてみるが、床から伸びる手では天井からぶら下がった紐に届かない。その間も紐は左右に揺れて、そのことが気になって仕方がない。


 それをしばらく繰り返し、不意に我に返って浦見は起き上がった。自分は何をしているのだろうと馬鹿らしく思いながらも、立ち上がって今も左右に揺れている紐を掴む。そうして紐の揺れを止めると、少し気になる気持ちが落ちついてきた。浦見が手を放すと再び左右に動き始めるが、もう気持ちは落ちついたので、今度は気にならない。


 おかしい、と浦見は思った。もちろん、紐が左右に揺れていることではない。そのことが異常に気になったことでもない。紐を律義に止めていることも違う。

 左右に揺れた紐を気にかけられるほど、静かな時間を過ごせていることが浦見からするとおかしかった。

 何もない。何も起きない。誰も来ない。昨晩のことを考えると、それがおかしくて堪らない。


 探していた組織とついに接触し、簡単に捕まってしまい、情報を引き出されそうになった直後、意味も分からずに解放された。それから、てっきり誰かが訪ねてくるのかと、夜の間に考えて思い至ったのだが、一向に誰も訪ねてくる気配がなかった。


 もう記憶が消されたのかと思う瞬間もあったが、流石に記憶を消された瞬間の記憶だけ消すとか、そのようなことをする理由もないだろう。


 だとしたら、自分は今、どういう状況にいるのだろうか。そう考えてみるが、浦見に答えが分かるはずもない。


 このまま家にいるべきか。いっそのこと、どこかに逃げ出すべきか。そう悩み始めた頃、浦見のスマートフォンに着信があった。誰かと思って画面を見てみるが、非通知になっている。

 もしかしたら――そう思いながら、浦見は恐る恐る電話に出てみる。


「もしもし――?」

「あ、先輩ですか?」

「いえ、浦見と言います」

「合ってるじゃないですか…」

「いや、セン・パイじゃないですよ?」

「馬鹿ですか?」


 初対面の相手に馬鹿と言うとは何事かと言いたくなったが、そこでようやく浦見は『先輩』という当たり前の単語の存在に気づいた。その呼び方をする相手にも心当たりがある。


「あ、重戸さん?」

「遅いですよ。普通は最初に気づきますよね?」

「気づかないよ。非通知だったし…何で非通知?」

「それよりも先輩は大丈夫なんですか?」

「それよりも…?」


 あまり納得できなかったが、電話越しでも話す気配がないことは分かった。仕方なく、浦見は追及することを諦める。


「まあ、驚くくらいに何もないよ」

「ですよね。どうしますか?」

「どうしようかな…?ちなみに重戸さんは外に出れる?」

「出れますよ」

「じゃあ、どこかで合流しようか…どこがいいかな?」


 浦見と重戸は互いに思いつく場所を言い合い、出版社の近くで合流することに決まった。それから、すぐに電話を切り、浦見は外に出る準備を始める。

 重戸が無事で良かったと思いながらも、やはり、何もないことが不思議で堪らない。


 もしかしたら、何かあったのだろうかと思いつつも、その何かが浦見には想像もつかないので、早々に考えることをやめて、さっさと家を後にする。出版社には毎日通っているので、その近くとなると考えるよりも先に足が動く。家を出てから、すぐに浦見は歩き出していた。


 それから、すぐのところだった。「すみません」と唐突に声をかけられ、浦見は歩みを止めた。誰だろうと思いながら、声のした方に目を向ける。


 そこに見覚えのある女性が立っていた。少し考えるまでもなく、その人が誰か浦見は覚えている。


「あ、この前の…」


 その呟きが消え入るように小さかったのは、その女性と逢った時のことを思い出したからだ。浦見が探していた写真に写った女性。その女性の居場所を教えてくれたのが目の前の女性だ。


 その時に懐いた怪しさを思い出した瞬間、浦見は身体を強張らせてしまっていた。何か良く分からないけど、目の前の人はとても怪しい。そして、とても恐ろしい。それだけが本能的に理解できてしまう。


「この前の情報はお役に立ちましたか?」

「え…?あ、ああ、はい…まあ…」


 女性は満面の笑みだったが、心なしか、その笑みも人形のように作ったものにしか見えなかった。恐ろしくなってきた浦見が逃げようと、足を本能的に半歩下げる。


 その瞬間、女性の手が伸びてきて、浦見の手をがっちりと掴んできた。


「どうして逃げるんですか?」

「え!?ちょっ…!?」


 急に掴まれたことで浦見が慌て始めた瞬間、浦見の視界の端を何かが動いた。それが何かを気にする時間はなかったが、気にする必要もなく、その視界の端を動いたものが向こうから近づいてきた。


「あれ?あの人って…」


 高校生くらいだろうか。少女の声が聞こえてきて、浦見と浦見の手を掴んでいる女性が顔を向ける。


 そこには三人の高校生と思われる少女と、浦見と同年代くらいの女性が一人立っていた。その四人の人物の顔を見て、すぐに浦見はそれが誰なのかを理解する。


(あの神社でオオカミと戦ってた子達だ――!?)


「あの人って…だよね?」


 手に持ったスマートフォンを隣の少女に見せながら、一人の少女が呟いた。その四人の登場に驚いたのか、浦見を掴んでいた女性の力が弱まっていることに、そこで浦見は気づく。


(今しかない――!)


 咄嗟に浦見は女性の手を振り払い、少女達から逃げるように走り出していた。その姿を見た女性が何かを叫び、その声に反応した少女達が一斉に走り出す。それらを音だけで感じ取りながら、浦見は振り返る余裕もないまま、一目散に走り続ける。


 良く分からないが、どちらに捕まっても良くない。そう思ったら、浦見の足は自然と動き、出版社の方に向かっていた。

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