影は潮に紛れて風に伝う(13)
振り返った幸善はそのまましばらく、そこに立っている少女を見つめていた。少女の呟いた言葉もそうだが、それ以上に少女がそこにいる事実に、幸善の頭は混乱していた。
ウィームの言うことが正しければ、既に壁と面したこの付近は、村人の立ち入りが禁止されているエリアだ。
ここがキッドの住む島である以上、そこで定められたルールを破る者に未来があるとは思えない。立入禁止エリアに踏み込んだ前例があるとして、その前例を作った人物は既に村にいないことだろう。
それが分かっていて、村人が立入禁止エリアに踏み込む理由はない。況してや、奥の奥に当たる壁付近まで来ることは絶対にないだろう。
そのはずなのに、少女はそこに立っている。それはどういうことかと混乱する幸善だったが、考えがまとまる前に視線は少女の肩や手に乗った動物に向いた。
それらの動物は少女が一本の樹木であると認識しているように、そこに鎮座していた。肩の上の小動物も、指の上に止まった小鳥も、全てが少女を見ることなく、何故か一直線に幸善を見ている。
幸善は森の中を突っ切ってきたばかりだが、そこに動物は一匹もいなかったはずだ。少なくとも、幸善の視界の中を動物の姿が横切った瞬間はなかった。
それが少女の周りには、一瞬で数え切れないほどの動物が大人しくしている。その光景に驚きと一緒に違和感を覚えないはずがなかった。
少女がそこにいることもそうだが、これらの動物がいること、何より、そこで大人しくしていること。それらのことをおかしいと思い、考え始めた幸善がちらりと森に目線を送ったことで、少女の背後に潜む影に気づいた。
それは人影ではない。動物の影だ。それも少女よりも大きく、頭の上に見える角は鹿のようだった。
それが一匹や二匹ではないことに気づいた途端、幸善の頭の中でさっきの考えが思い浮かんだ。壁に到達する前に考え、まとめ切る前に考えることを中断したことだ。
まさか、本当に当たっていたのかと思っていると、少女が再び口を開いた。
「それを壊すのはお勧めしない。壊すととても危険だから」
少女は忠告の言葉を口にしたが、それを幸善が聞き取ることは不可能だった。少女が口にした言葉は英語だ。単語自体は聞いたことのある物もあったが、全文を理解するのに頭の中で英単語を並べるには限界があった。
最後まで思い浮かべた頃には、先頭の方の言葉が頭から消え、幸善は少女が何を言ったのか理解できないまま、不安な目で少女を見ることになる。
少女が何者かは分からないが、偏にここまで来ていることを考えると、村人ではない可能性が高い。
それだけではない。少女の連れている動物が全て理性のある妖怪だとしたら、少女は非常に厄介な存在を引き連れていることになる。
いくら仙人である幸善でも、これだけの妖怪を相手できるかは怪しいところだ。その力は非常に脅威と言えるだろう。
もしかしたら、少女はキッドに近しい人物なのかもしれない。幸善は状況からそう考えた。キッドの仲間と断言はできないが、最低でもそれに近しい人物である可能性が高いのではないだろうか。
もしそうなら、少女からキッドの居場所まで辿りつけるかもしれない。
幸善は動揺で僅かに震える手を押さえ、少女に向かって口を開こうとした。言葉を迷わせるように唇を僅かに動かしてから、拙い英語を口にする。
「君の名前は?」
その問いを聞いた少女が小さく首を傾げ、僅かにその場から後退った。
逃げられる。そうなったら、キッドに繋がる手がかりがなくなってしまう。咄嗟に焦った幸善が手を伸ばし、少女を引き留めようとする。
「ちょ、ちょっと待って!?」
その瞬間、少女の手や肩に止まっていた小鳥が飛び出し、幸善の周りで威嚇するように鳴きながら飛び回り始めた。
「い、いや、ごめん……!」
幸善は咄嗟に小鳥から身を庇うように手を上げ、思わず謝罪の言葉を口にしてから、我に返って顔を上げる。
そこを飛び回る小鳥達は全て鳴き声を上げて、幸善に威嚇していた。そのことに気づいた幸善が目を大きく見開き、愕然とした様子で口を開いた。
「妖怪…じゃない……?」
小鳥達は全て小鳥の鳴き声を発していた。
だが、それらの小鳥が妖怪なら、その声は人の声として幸善には聞こえるはずだ。そのまま小鳥の鳴き声として聞こえるはずがない。
「やめて!」
少女が僅かに荒げた声を出し、その声に反応するように小鳥達が鳴き声を止めた。
「戻ってきて」
少女が手を伸ばすと、小鳥達は一斉に戻って、少女の指先に止まっている。
その一連の言葉や動きを見て、幸善は目を見開いたまま、ゆっくりと首を傾げていた。今の動きが単純な訓練の結果とは思えない。訓練にしてはあまりに動きが具体的過ぎた。
まるで幸善が妖怪と会話するように、少女の声を小鳥達が理解しているようだった。その光景を見て素直に思ったことがそれだが、そのようなことがあり得るのかと幸善は混乱し始めていた。
「言ったからね。バイバイ」
小鳥を引き連れた少女が手を上げ、幸善に向かって振るってきた。その直後、森の中に駆け出し、そこに潜んでいた鹿達の中に紛れ込んでいく。
あまりの光景に呆然とし、その姿を理解するまでに遅れてしまった幸善は、鹿達の中に少女の姿が消えてから、慌てて手を伸ばしながら走り出していた。
「ちょっと待ってくれ!?」
そう言いながら、森の中に入ってみるが、そこにずらりといたはずの鹿は全て消えている。
それだけではない。そこに存在するべきはずの鹿の足跡もない。少女の足跡も当然のように見当たらない。
(どういうことだ?何だ、この島は?)
キッドの島であると分かっている以上、いろいろと想定外のことはあると思っていたが、それを超えた想定外が続き、幸善の頭は回転できないほどに絡まり始めていた。
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