帰る彼と話したい(10)

「難波、頬はふぇん力で額ん化けど」


 Q支部の廊下を走りながら、頬を真っ赤にぷっくりと腫らした相亀が、意味の分からないことを口にした。水月も、満木も、葉様も、相亀の一言に意味の分からない顔をして、相亀の膨れ上がった頬を見る。


「何で、そんなに頬を腫らしてるんだ?」


 口火を切ったのは葉様だった。腫れ物に触れるように、というか、腫れ物に触れる言葉を投げかけて、実際に腫れ物となった相亀が痛みに耐えるように顔を歪ませる。


「穂映えは冷ない不意を吸うな!」


 走りながら、相亀の足が綺麗に回転し、葉様の脛を正確に狙ったローキックが放たれたが、それは命中することなく、相亀は体勢を崩して転びそうになっているだけだった。


 相亀の頬が腫れている理由は語るまでもないが、もちろん、相亀を起こすために葉様が頬を平手打ちした結果である。遠慮のない音が響いていると思えば、叩かれた頬は時間を待たずして、焼いた餅みたいに膨らんでいた。


 そこから、説明と言える説明もなく、逃げ出したアッシュの捜索のために水月達は走り出し、相亀も何となくついてきている状態になっていた。

 取り敢えず、自分の頬を膨らませた原因が葉様にあることくらいは理解したらしい。葉様も特に抗議していないので、それは確信を持っているだろう。


 だが、何の理由があって、Q支部の中を走っているかは分からないらしく、一通り、葉様とローキックのじゃれ合いを済ませてから、相亀の視線が水月に向いた。


「吠えで、ハンデファヒってる判事?」

「妖怪が逃げ出したらしい」


 膨らませた頬は喋りにくさの塊のようで、相亀はさっきから聞いたことのない言語を口にしていたが、既に履修済みだったように葉様は冷静な様子で答えていた。


「え?何で分かったの?」


 思わず純粋な疑問が水月の口から漏れる。所属が同じで、葉様よりも圧倒的に水月の方が付き合いは長いのだが、今の言葉は一切理解できなかった。

 吠えている犬の方が今の相亀よりも会話を成立させる自信があるくらいだ。如何せん、日本語に掠っているから余計に意味が分からない。


 しかし、今はそれよりも満木に相亀を押しつけるどころか、相亀と葉様がくっついてきたことに、水月は面倒さを覚えていた。


 これでアッシュを追い出すことは、より困難になってしまった。満木だけでなく、相亀や葉様の目を盗んで、アッシュを追い出せるかどうかは微妙なところである。


 ただ満木や相亀と違って、葉様は一応、何とかなる可能性がある。妖怪嫌いな葉様でも、流石にQ支部の中で預かっている妖怪を始末することの問題さは理解しているはずだ。堂々と人前で行うことはないだろう。殺すとしたら、こっそりと気づかれないようにするはずだ。


 この他に三人が追いかけている状況で、いくら葉様でもアッシュを始末するとは思えないが、ここで水月が協力を持ちかけて、アッシュをQ支部の外に追い出すことができたら、話は変わってくる。


 Q支部の外なら、何の遠慮もなく、葉様が刀でアッシュを切り伏せられる上に、水月もアッシュという恐怖の対象が消えてくれて、正にwin-winの関係だ。


 ここはこっそりと葉様に作戦を伝えて、協力してくれないかと持ちかけてみよう。そう思った水月が葉様に声をかけようかと思っている間にも、相亀の意味の分からない言葉と、本当にどうして理解できるのか分からない葉様の会話は続いていた。


「胞胚は冷えは?」

「カエルの妖怪だそうだ。そいつが逃げて、見つからないらしい」


 その説明を聞いた相亀が途端に言葉を止めて、何かを察したように、ゆっくりと水月に目を向けてきた。何かを言いたげな視線を水月に向けてくるが、水月は何も関係ないと言わんばかりに、きょとんとした顔をするしかない。


 十中八九、相亀には水月が何かをやらかしたとバレているが、それも追及されなければ関係ないことだ。今の相亀の日本語能力で、水月が白状するほどに追及されることはない。


「ところで、これはどこに向かっているんですか?」


 不意に満木が疑問の声を漏らし、不思議そうに軽く首を傾げて、葉様と相亀が立ち止まった。それに釣られて、水月や満木も立ち止まり、四人は顔を見合わせてから、葉様がゆっくりと口を開く。


「その妖怪が向かう先として、思い当たる場所はないのか?」

「全く」


 水月がかぶりを振ると、同じように満木もかぶりを振って、葉様は呆れたように溜め息をつく。何の考えもなく、四人でひたすらに走って、アッシュを探そうと思っていたのだが、それでは見つからないと葉様は考えているらしい。


「あい」


 相亀が唐突に手を上げて、三人の会話に割って入ってきた。相亀が何かを言っても、水月や満木は何を言っているか分からないので、ここは葉様に目を向けて、通訳を頼むことにする。


「ひほつ保母い母る不被ば春」

「それはどこだ?」

「本当に何で分かるんだろう?」


 水月が疑問に思う中、相亀はどこかの場所を示すと思われる言葉を口にした。


「北道」

「根拠はあるのか?」


 葉様の問いに相亀は自信満々に頷き、それを見た葉様が水月と満木に目を向けてきた。


「なら、そこに行く」


 確認ではなく、決定事項のように口にした葉様の言葉を聞いて、水月と満木は不思議そうに顔を見合わせてから、恐らく、同じように思ったことを水月が口にした。


「そこってどこ?」

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