憧れよりも恋を重視する(30)

 ゆっくりと力が抜けて、自然と床に膝をついていた。そのまま床に倒れ込みそうになるが、その寸前で両手を伸ばし、四つん這いの体勢で何とか踏み止まる。

 眼前には手から落ちた薙刀が転がっていた。それを再び握りたいが、それに手を伸ばしたら、渦良は床に倒れ込みそうだ。


 鼻での呼吸は未だに止めている。匂いはさっきから感じていない。

 そのはずだが、再び手足を襲った痺れに、渦良は状況の理解ができていなかった。匂い以外の秘密があるのかと考えてみるが、その片鱗も見た覚えはない。


 そう思っていたら、渦良の上に影がかかった。

 薫が渦良の前に立っている。それは分かるのだが、四つん這いの体勢では顔を上げることが難しい。


「どうやら、ちゃんと動けなくなったようだな」

「何をした!?」

「匂いを塊でぶち込んだ。意識していないから気づいていないかもしれないが、脳はちゃんと匂いを認識してくれたようだな」


 鼻呼吸をやめても鼻孔が塞がったわけではない。そこに匂いを押し込まれれば鼻に入る上に、口での呼吸を続けている以上、そちらからも匂いは漏れる。

 それが見事に効果を発揮し、渦良の手足から自由を奪ったようだ。


「一応、強めにしたが、まだ耐えているところを見るに、生命活動まで止めることは難しそうか」


 そう言いながら、渦良の頭の前で薫が足を上げるのが、薫の影から分かった。その動きに渦良は身構えたいが、今の渦良では身構える行動も取れない。

 身構えたところで体勢を崩し、床に倒れ込んだ頭を潰されるのが目に見えている。


 死んだ。そうハッキリと思い、渦良は目を瞑った。


 次の瞬間、肉と肉がぶつかる激しい音が響き渡り、渦良は思わず全力で「痛い!」と叫んだ。薫の足により、後頭部が背後に吹き飛び、背中を地面に打ちつける――様子を想像する。


 しかし、それらは想像でしかなく、実際に起こっていることではなかった。痛みも感じたわけではない。


 おかしい。そう思う渦良の頭の向こうから、何かが転がる音が聞こえ、離れた位置からさっきまで聞いていた声が聞こえてきた。


「遅かったか」


 その声が薫の声であることに気づき、渦良はゆっくりと目を開いた。


「大丈夫ですか?」

「間に合ったみたい」


 そう呟く声はどちらも女性のもので、さっきまでそこになかった声のはずだ。そう思ったと同時に渦良は自身の行動が実を結んだことを理解する。


 どうやら、時間稼ぎは成功したようだ。


「悪いが、大丈夫じゃない」


 そう呟き、渦良は床に倒れ込んだ。力が入らなくなっていることもそうだが、頭を蹴られたダメージが未だに残っていて、頭はまだぼんやりとしたままだ。

 それを渦良は仙人としての意思だけで保っていたが、それも既に限界に近かった。


 倒れ込んだ渦良はそこに立っている人物の顔を見た。

 有間ありま沙雪さゆき漆野うるしの紅栗くくり。漆野は別行動だったが、どちらも同じ仕事に携わった仙人だ。


 その二人の登場に安堵した渦良とは対照的に、薫は嫌悪感を隠すことなく眉を顰めていた。


「時間をかけ過ぎたか…」


 小さく呟いてから、薫は近くの扉に目を向けている。それは重戸のいる部屋の扉だ。

 その扉と自身の手を何度か見比べ、薫はその場に駆けつけた有間と漆野を再び見た。


(殺すだけなら三人でも問題はないが、そうすると後がなくなるか…目的は逃走だ。ここで消耗する必要もない)


 目的は果たせないが、戦力が欠けるよりはマシかと判断し、薫がその場からの逃走を図ろうとした。


 しかし、この状況になって薫が逃げ出す可能性を有間と漆野が考えていないはずがなかった。


 薫が両手を動かそうとした瞬間、有間が大きく踏み込み、薫との距離を詰めてきた。その速度に驚きながらも、薫は有間の攻撃を受け止めるために両手を上げる。


「ごめんなさい!」


 そう叫びながら、有間が腕を振り切った。その拳がまっすぐに薫に向かい、薫の腕にぶつかる。


 ちゃんとガードが間に合った。そう思う暇もなく、薫はその有間の拳の衝撃で吹き飛び、廊下を転がっていた。

 その想像以上の強さに驚きながら、渦良に止めを刺そうとした時、同じように転がったことを思い出す。


 あの時は何が起きたのか分からなかったが、今のように殴られたのかとようやく理解した。


 廊下を転がってから身を起こし、薫は両手の感覚に苦笑する。衝撃で手が痺れる経験など数えるほどしかしたことがない。

 その少ない経験の一つを目の前の華奢な女が生み出したと思ったら、笑みなど堪えても漏れ出すものだ。


 あまりにも厄介。そう考えながら、薫は有間の再接近を警戒した。


 だが、本来、警戒すべき相手は有間ではなかった。


 そのことに気づいた時には遅く、薫は自身の隣に立った漆野を視界の端で見た。


 瞬間、漆野の刀が振るわれる。咄嗟に薫は頭を下げ、その刀を躱そうとするが、恋路のように瞬時に状況を把握する目も、戦車のように一瞬の内に動く身体も、薫は持っていない。


 漆野の刀は薫の頬を撫で、頬から蟀谷にかけての部分を大きく斬りつけた。

 そこから流れる血を手で押さえながら、薫は漆野の腹を蹴り飛ばし、距離を作ろうとする。


 しかし、それを追いかける形で、有間が大きく踏み込んできた。その拳の威力は二度味わった。薫は次の展開を想像し、反射的に頬を押さえていた手を伸ばした。


「気をつけろ!そいつの妖術は匂いだ!」


 その瞬間、渦良がそのように叫んだが、既に遅いと薫は思っていた。


 有間は拳を解き、咄嗟に鼻を押さえるが、その時には薫の手から匂いが飛び出し、有間に襲いかかっていた。


 有間はその匂いに思わず目を瞑り、その場に身を屈める。その光景を見ていた渦良は有間も自身と同じように身体が動かなくなることを予想し、青褪めた。


 しかし、有間は普通に身を起こした。


「あれ?何ともない?」

「何も起きてない…?」


 驚くように渦良が呟いた直後、誰よりも最初に異変に気づいた漆野が声を出した。


「人型が消えた」


 その声に渦良と有間も顔を上げ、廊下を何度も見回してみるが、その場所にいたはずの薫が消えている。


「どこに!?」

「視界に影響を与えてきたのか!?」


 三人は周囲を警戒し、どこにいるか分からなくなった薫からの攻撃に備えるが、その攻撃はいつまでも来ることがなく、しばらくして、応援の仙人が新たに駆けつけ、薫が逃げたことを三人は理解した。

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