節制する心に迷いが吹き込む(4)

 いつものようにQ支部を訪れた幸善が医務室に顔を出すと、万屋よろずや時宗ときむねが驚いた顔をしていた。幸善が左腕の様子を見てもらいに来たと告げると、万屋は困ったように頭を掻いている。


「それなら、事前に連絡しろよ。俺がずっといるわけじゃないんだぞ?」

「ああ、すみません。さっき思いつきで来てしまったので」

「全く…」


 万屋は呆れた様子だったが、幸善を追い返すことはせず、左腕を見てくれるようだった。万屋の座っている場所の前に椅子を用意し、そこに座るように幸善に言ってくる。幸善は言われるままに椅子に座り、指示されるままに左腕を見せていた。


 そこから、万屋が左腕の様子を見始めてくれたのだが、そこで幸善はノワールが医務室の中に入ってきていることに気がついた。外で待っているように言ったのに、犬で尚且つ妖怪のノワールが勝手に入ってきたとなると、これはきっと万屋に怒られるぞ、と幸善が思っている間に左腕を見終わったらしい万屋が驚いたような声を出す。


「あれから、まだ一週間も経っていないよな?」

「え?あ、はい。先週末だったので、明日で一週間ですね」

「それなのに、ほとんどしているな」

「そうなんですか?でも、二週間はかかるって」

「その予定だったんだがな…仙人は傷の治りが速いが、それにしても速すぎる。何をしたんだ?」

「いや、何も。寧ろ、気にしてもいませんでしたね。それですか?」

「気にしないことで速く治るなら、医者なんていらないだろうが」

「ああ、確かに。じゃあ、何でですかね?他に思い当たる節はないですよ?」

「そうなのか…?取り敢えず、軽く動かしてみろ」


 万屋に言われて、この数日は動かしていなかった左腕を軽く動かしてみる。確かにあったはずの痛みはなくなっていて、動かすことに問題はなくなっている。


「ちょっと重いですかね」

「まだ筋肉の一部に影響はあるのかもしれないな。ただそこまで動かせている時点で大丈夫だろう。取り敢えず、今日から日常生活に使う分には問題ないと思うぞ」

「それなら、明日から仙技の特訓もできますか?」

「それはもう少し待て。せめて、来週になるまで様子は見ておいた方がいい」

「慎重ですね」

「当たり前だ。普通は後遺症が残ってもおかしくない傷だったんだぞ?」

「そ、そうですよね…」


 改めて指摘されると、自分の行いの異常さに気がつき、幸善は苦笑いをしていた。自分にできることに限りがあったとはいえ、佐崎ささき啓吾けいごの刀を自分の身で受け止めたのは、少しやりすぎだったかと反省する。


 その時、幸善の背後で物音がした。その音に反応し、幸善より先に万屋が幸善の背後を見ている。


「あ!?お前、犬を連れ込んだな!?」


 幸善が振り返ると、テーブルの上に登ろうとしているノワールの姿を発見した。幸善はノワールを止めようと慌ててノワールを抱きかかえる。


「ご、ごめんなさい!?勝手に入ってきたみたいで!?」

「幸善。それ」

「何だよ!?」


 ノワールの声に反射的に怒りながら、幸善がテーブルの上に目を向けると、ジップロックに入った布切れが二つ置かれていることに気がつく。


「それ、何ですか?」

「ああ、こいつか?これはお前の怪我の原因になった一件があっただろう?そこで何かに操られていた佐崎と山の動物から共通して漂っていた匂いを取り出し、移したのがその布だ。どっちも同じ匂いに感じるが、成分の分析とかはこれからするから、本当に同じ匂いかはこれからだな」

「それが操られていたことと関係があるんですか?」

「それも今から調べる」

「じゃあ、まだ何も分かってないんですね」


 そう言いながら、幸善はその布をノワールが気にしていることが気になった。ノワールは小刻みに鼻を動かし、匂いを嗅いでいるように見えるが、まさかジップロック越しに匂っているのか、と幸善は思う。


「匂うのか?」

「周りの袋に微妙についている匂いが気になる」

「ああ、そういうことか。超嗅覚でも持っているのかと思った」

「何だよ、超嗅覚って」

「これって開けていいんですか?」

「軽く嗅ぐ程度なら大丈夫だ。布を出して放置したりするなよ」

「それは流石にしませんよ」


 万屋から許可が取れたので、幸善はテーブルの上に置かれたジップロックを手に取り、開けて匂いを嗅いでいた。ノワールも中に鼻を近づけて、幸善と一緒に匂いを嗅いでいる。

 確かに布から漂う匂いは独特なものだった。あまり日常的に嗅ぐ匂いではないのだが、その匂いを嗅いですぐ幸善は覚えがあるような気がしてくる。


「あれ?この匂いを嗅いだことがあるような…?」

「本当か?」

「いや、けど、どこで嗅いだのか思い出せないんですよね…佐崎を相手にしている最中かな?いや、そんな覚えはないけどな…」

「何言ってるんだよ…」


 不意にノワールが振り返り、幸善は見つめてきていた。犬のために分かりにくいが、表情には微かな焦りや驚きが含まれているように見える。


「どうした?」

「こいつはだよ」

「はあ?薫さんから?」


 そう言われ、幸善は確かに薫から独特な匂いがしていたことを思い出す。


「そういえば、似ているような…」

「ちょっと待て。今、お前、薫さんって言ったか?」

「え?あ、はい。言いましたよ?」


 薫の名前を呟いた幸善を見る万屋の表情は、ノワールと同じように焦りや驚きが含まれているものだった。


「薫さんを知っているんですか?」

「いや、知らん」

「何だよ…知らないのに、そんな顔をしてたんですか?」

「そうじゃない。薫っていうやつがどうかは関係なく、人間がこの一件に絡んでいる事実が厄介なんだ」

「はあ?どういうことですか?」


「もしかして、幸善は人型ヒトガタのことを知らないのか?」

「何?人型?」


 ノワールの口から飛び出た知らない単語に、幸善は首を傾げるばかりだった。

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