節制する心に迷いが吹き込む(3)

 幸善が帰宅するなり、出迎えるように顔を見せたのはノワールだった。そのことに普段の幸善なら面食らっていたところだが、この数日に限ってはそんなこともなかった。

 何故かノワールの方から、幸善にくっついてくることが増えていたからだ。昨日もこうして出迎えてきていた。そのことに頼堂千明ちあきは怪我を心配しているからと言っていたが、ノワールがそのように殊勝な態度を取るとは思えない。


 きっと何か思惑があるに違いないと幸善は警戒していたのだが、今日はそれどころではなかった。薫から言われたことを思い出し、そのことで頭が一杯になって、ノワールのことを気にしている余裕はなかった。


「どうした?今日は何か暗いな?」


 ノワールが心配しているのか声をかけてくるが、幸善はその声にも生返事しかできなかった。その様子にノワールが怪訝な目を向けている。


「幸善。帰ってきたの?」


 頼堂千幸ちゆきが顔を見せ、玄関で靴を脱ぐのに時間がかかっている幸善に声をかけてくる。


「ただいま」

「おかえり…じゃなくて、あんた、病院に行かなくていいの?」

「病院…?」


 愛香のことを考えていた幸善は急に病院と言われて、何のことかすぐに理解できなかった。その様子を見てか、千幸が自分の左腕をバンバンと触っている。


「怪我」

「ああ、そうか…」

「一週間くらい経つから、そろそろ一度見てもらうべきでしょう?バイト先にだって報告しないといけないし」


 千幸の言っている病院も、千幸の言っているバイト先も、実は同じ場所のことなのだが、そのことを説明できない幸善は取り敢えず、うなずいていた。


 それから、左腕を見ながら幸善はしばらく痛みも何もないことを思い出す。愛香のことが間にあり、そのことで意識が紛れたのかもしれないが、刀で刺された傷がここまで順調に治るのかと考えると、仙気をまとっている効果は凄まじいものがあるらしい。


 そのことを考えながら、幸善は自室に荷物を置き、Q支部に向かうために家を出ることにする。急いで怪我の様子を見てもらう必要はなく、明日でも別に構わなかったのだが、今日の幸善の状態的に他に考えられることが欲しかったのと、Q支部で何らかの相談ができないかと思っていた。

 奇隠が動けないにしても、何らかのアドバイスの一つくらいは得られないだろうかと幸善は考えていた。


「じゃあ、行ってきます」


 部屋に荷物を置くなり、幸善はそう言って家を出る。その直後、家の中では千明がノワールの散歩に出ようと、ノワールに声をかけていた。


「ノワール。散歩に行くよ」


 そう言いながら玄関に移動してみるが、ノワールは一向に姿を現さない。そのことを不思議がりながら、千明は何度かノワールの名前を呼んでみる。それでも、ノワールの姿が見えないことに変わりはない。

 あまりに千明がノワールと言っているためか、千幸が心配した様子で顔を覗かせていた。


「どうしたの?」

「ノワールが出てこなくって…」


 既に靴を履いていた千明だったが、一度靴を脱ぎ、ノワールを探すために家の中を歩き出していた。その間もノワールの名前を呼んでみるが、ノワールの姿は見つからない。


「あれ?どこに行ったの?ノワール?」


 千明が不思議そうに顔を上げ、そのような言葉を呟いた同時刻、Q支部に向かっている最中の幸善は似たような言葉を聞いていた。


「どこに行くんだ?」

「ん?Q支……」


 Q支部に向かいながら、いなくなった愛香のことを考えていた幸善は、そこまで言いかけてから、我に返った。もう少しでいらないことを言いそうだったと思いながら、自分に質問をしてきた声の主に目を向ける。


 気づけば、幸善の隣をノワールが歩いていた。


「お前…何でここに?」

「お前こそ、何をそんなに考え込んでいるんだ?」

「別に何でもないよ」


 幸善はそう言っていたのだが、ノワールの怪訝そうな目は一切変わらなかった。その目は幸善に言うように催促してきているが、幸善は自分が何を考えているのか、ここでうまく口に出すことができそうになかった。

 それはたとえ、Q支部で愛香のことを頼んでも、口に出せるか分からないことだ。

 愛香がいなくなった理由に自分が関係しているかもしれない。そのようなことは認めたくない。それが弱さだと分かっていても、幸善は言えない自分がいて、それなのに考え続けてしまっていた。


 自分も大きなことを言えたものではなかったと思いながら頭を抱えていると、幸善の隣でノワールが溜め息をつく。


「何か知らないが、そんな顔を千明の前でするなよ」

「何だ、お前は結局千明か」

「当たり前だ。俺の飼い主だからな」

「俺は?」

「飼い主の下僕」

「兄と言え」


 そうやってノワールと下らない話をしていると、さっきまで悩んでしまっていたことが少しだけ薄れる気がして、幸善はほんの少しだけ、ノワールに感謝の気持ちを懐いていた。

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