憧れよりも恋を重視する(8)
軽石の婚約者がQ支部を訪れるまでに、鬼山にはこなしておかなければいけない仕事があった。考えるだけで暗い気分になるが、鬼山にしかこなすことのできない大事な仕事だ。
そのために鬼山は秋奈の部屋を訪れ、その扉をノックした。中から秋奈の声が聞こえ、そこに秋奈がいると分かり、普段なら喜ばしいところなのだが、今はその声にも気が重くなる。
きっと面倒なことになる。そう分かり切っているからこそ、ここで秋奈と逢いたくないのだが、そうも言っていられない。
鬼山がノックの後に名乗ると、少しドタバタした音の後に秋奈がゆっくりと扉を開ける。
「あら~、どうも~」
その近所の奥様のような挨拶に、鬼山はさっきまでの頭の重さとは別の理由で、眉間に皺を寄せていた。
「秋奈さん?何かありましたか?」
「いや、別に!?何もありませんよ!?」
動揺の二文字を顔に張りつけたような反応に、何かあったことは聞くまでもなく明白だった。
秋奈が頑なに手を離そうとしない扉に手を伸ばし、鬼山は扉が閉まらないように身を挟みながら、部屋の中を覗き込もうとする。
それに秋奈が必死の抵抗を見せた。
「ちょっと!?レディーの部屋を覗かないでください!?」
「それは重々分かっていることなのですが、秋奈さんの口が硬そうなので、実際の現場を見た方が早いかと思いまして」
「現場って何のことですか!?」
とぼける秋奈の背後では、こちらに向かってくる黒い布の塊が現れていた。一見するとホラーとしか思えない光景に、秋奈よりも早く気づいた鬼山は固まり、無言のまま、秋奈の背後をゆっくりと指差す。
「秋奈さん?それは何ですか?」
「その手は通用しませんよ」
「いやいや、本当に!それは何ですか?」
「何もないことは分かっていますから」
頑なに振り向こうとしない秋奈の背後で、黒い布は更に接近してきていた。それに気づいた鬼山が半歩下がった瞬間、秋奈が今だと判断したらしく、身を突き出して、鬼山の身体を部屋の外に押し出そうとする。
その時、タイミングを合わせたわけでもないと思うのだが、秋奈の背後で動いていた黒い布の塊が飛び出し、秋奈にぶつかった。
突然の衝撃に秋奈は体勢を崩し、鬼山を通り越して、廊下に転がっていく。その隣に黒い布の塊も転がり、塊になっていた黒い布がゆっくりと解けた。
そこで分かったことだが、黒い布の正体はグラミーだった。グラミーが黒い服の中から抜け出せなくなっていたようで、解放されたグラミーはそこでホッとした様子で顔を洗っている。
その光景に安堵しながらも、鬼山は今しかないと判断し、秋奈の部屋に踏み込んだ。
そこで目撃したのは、部屋中に散らばった様々な衣服と、それらが作った雪崩の発生源と思われるクローゼットと、そのクローゼットを封じていたはずの倒れた扉だ。
それだけで何が起きたのか察した鬼山は振り返り、そこで座り込んだまま、青褪めている秋奈を見た。
「秋奈さん…敢えて何があったのかは聞きません。現時点で頭痛の種にしかなっていないのに、それを酷くしたいとは思いませんから。ですので、説明はしないでください。その上で何か言えることはありますか?」
鬼山の問いを聞いた秋奈が少し黙ってから、隙間風のようなか細さで「ごめんなさい」と口に出した。
「申し訳ないとは思っているということですね。謝罪の意思はあると」
「それはもちろん…」
「なるほど。そうですか…」
しょぼくれた様子の秋奈を見ながら、鬼山は背後のクローゼットの惨状を合わせて考えていた。ここに来た目的に一切触れられていないのだが、これはうまく使えば話を拗れさせることなく、目的を達成できるかもしれない。
試しに鬼山はクローゼットの様子を確認し、素人目にだが、天秤にかけてみることにする。
その結果、明らかに利用しない方が面倒だと判断し、鬼山は秋奈を見た。
「これら衣服はちゃんと整理してください。捨てろとは言いませんが、適切な管理をお願いします」
「はい…ごめんなさい…」
「クローゼットの修理費用はこちらで負担しましょう」
「はい…ごめんなさ…え…?」
何を言ったのかと言わんばかりに秋奈が顔を上げ、今の言葉が聞こえていなかったような表情で鬼山を見てきた。もちろん、全て聞こえていただろうと分かっているのだが、念のためにもう一度、言っておく。
「クローゼットの修理費用はこちらで負担しましょう」
「え?え?どうしてですか?」
普通なら、修理費用は自己負担と言うところなのだが、それ以上に今は秋奈にしてもらいたいことがあった。
「その代わり、一つ約束をして欲しいのです」
「約…束…?」
少し怯えた様子で首を傾げる秋奈の前で、鬼山は一度口を開いてから動きを止めた。もう一度、部屋の中の惨状を見てから、一度口にしようとした言葉を飲み込む。
代わりに別の言葉を持ち出し、秋奈に向かって言った。
「今日これからのことなのですが」
鬼山の浮かべる笑みを見て、秋奈が引き攣った笑みを浮かべる。
「許可するので一日外出していてもらえますか?」
普段の鬼山なら絶対に言わない寛大なお願いなのだが、それを聞いた秋奈は軽い絶望を感じさせるほどに引き攣った表情を見せ、鬼山は事前に手を打っておいて正解だったと理解した。
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