熊は風の始まりを語る(6)
唐突に喧嘩を売りつけた久遠や、喧嘩を押しつけられた愚者よりも、その間に立って二人を引き合わせた皇帝の方が、その軋轢しかない初対面に言葉を失っていた。
取り敢えず、このまま意味も分からないまま、久遠に帰られるわけにはいかない。
何とか宥めて、もう少し意味のある会話をしてもらおうと思い、皇帝は慌てて久遠を追いかけたが、久遠は一切止まることがなかった。
「なあ、久遠。もうちょっと真面に話してくれないか?行くまでの間に説明したように、今、彼は…」
「悩んでいるんだよね?それもとても暗い悩み。聞いてなくても顔を見たら分かるわよ」
「その相手に暗いって言うか?」
「じゃあ、聞くけど」
久遠がようやく足を止めたかと思うと、今度は皇帝の顔をまっすぐに指差してきた。
「人を紹介するって言われて、その人を連れてきてもらったのに、初めから見向きもしないとかある?」
そう言われ、皇帝は確かに愚者が久遠を見ていなかったと思い出した。
「流石に怒ったら、こっちを見るかと思ったけど、暗いって言われて、言った一言は『君は明るいね』だよ?信じられる?怒るんじゃなくて、人を褒め出したんだよ?それも一度も見ていない人を」
「それで久遠の方が怒ったと?」
「別に…怒ったわけじゃない…」
皇帝に向けていた顔を僅かに背け、久遠は眉間に皺を寄せながら、小さな声で呟いた。
「あんなの…自分に酔っているだけでしょ…?」
それが心の底から腹立たしいと言わんばかりに、久遠の声は怒りの籠ったものだった。
それを聞いた皇帝がぶんぶんとかぶりを振って、久遠の言葉を否定した。
「彼にもああなった理由があって…」
「何?理由があれば人を無視してもいいの?適当に相手してもいいの?あのね。何があったのか知らないけど、辛いこととか悲しいことは誰の身にもあって、その大きさは比べ物にならないの。それでも、多くの人は自分の気持ちを他人に押しつけないように生きているのに、あいつは私にそれを押しつけてきた。だから、言ったの。暗いって」
心の底からの言葉を吐き出し、最後に久遠は悲しげに俯いた。
「そういうの…狡くて、大嫌い…」
表情こそ怒っているが、目には今にも溢れんばかりの涙を溜めている久遠を見て、皇帝は自身の我が儘を押し通すことができなかった。
もう逢ってみないかと言うことはできない。自分では変えられなかった愚者の何かを、久遠なら変えられるかもしれないと思ったが、それもまた夢の夢だ。
そう思っていたら、最後に軽く涙を拭いた久遠が顔を上げ、皇帝の顔をまっすぐに指差してきた。
「だから、もし私にあいつの相手をさせたいなら、私に花の一本…いや、花束でも持ってこさせなさい。それができたら考える。多分、無理だと思うけど」
そう言い残し、立ち去る久遠を追いかけようとしたが、今度ははっきりと両手を突き出し、「ついてこないで」と拒絶されたので、皇帝に追いかけることはできなかった。
どうしようかと頭を悩ませながら、さっき久遠が言っていたことを思い出し、皇帝は愚者のところまで戻っていく。
愚者はさっきと同じ場所で、さっきと同じように空を眺めていたが、皇帝が戻ってくるとゆっくり顔を向けてきた。さっきはなかった光景に、皇帝は苦笑も出ない。
「聞こえていたか?」
「いや、聞かなかったよ」
聞くことはできたという意味の籠った言葉に、皇帝は何とか不格好な苦笑を浮かべることができた。
「彼女は何と?」
「No.0が花束でも持っていったら、許してくれるそうだ」
「へぇー、そうなんだ。彼女は優しいね」
「どうする?持っていくか?」
帰ってくる言葉は分かり切っていたが、皇帝は義務のようにそう聞いていた。
それを聞いた愚者は少し微笑んで、小さくかぶりを振った。
「だろうな」
「持っていっても怒らせるだけだよ。そういうエネルギーは大切な時に取っておくべきだよ」
そう言ってから、愚者はその場に寝転んだ。
その姿を見ながら、皇帝は本当に終わったと思っていた。せっかくできた友人を愚者に紹介し、それで何かが変わればいいと思っていたが、それも少しの兆しを見せることもないまま、完璧に潰えた。
こうして、愚者と久遠は最悪な初対面のまま、その繋がりを失った――とこの時は誰しもが思っていた。
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