鯨は水の中で眠っても死なない(9)

 授業を終えた七実が職員室に戻ってきた時のことだった。七実に来客があったらしく、正面玄関で待っているそうだ。逢いに行く前に一応、どういう人なのか聞いてみたら、外国人と言われて、七実は首を傾げることになった。外国人の知り合いに思い当たる節がない。


 そう思っていたのだが、正面玄関に行ってみたら、思い当たる節があったことを思い出した。というよりも、忘れていたと言えるのかもしれない。本能的に存在を忘れることで、七実は七実の自我を保とうとしていたのかもしれない。


「よお、No.7」


 生徒や教職員も通る正面玄関で、ディールは堂々とNo.7と口に出した。怒りや驚きよりも、先に呆れが膨れ上がり、七実は言葉を失ってしまう。


「こんなところにいたのかぁ。知らなかったなぁ」


 そう言いながら、ディールは七実に近づいてくるのだが、七実はディールがここを訪れた理由が分からなかった。


「何で、ここに来たんだ?」


 七実の質問にディールは笑みを浮かべ、周囲に目を向けている。人がいるところではできない話なのだろうかと思い、七実が移動することを提案しようとした瞬間、ディールが七実を見てきた。


「あのガキはいないなぁ。なら、いいやぁ」

「移動するか?」

「お前、何を知ってるんだぁ?」

「何?」

「ここにいるってことは何か聞いているんだろう?」


 ディールと何度か言葉のラリーを繰り返し、七実はようやく大切なことに気づいた。


(こいつが何言ってるか分からねぇ~)


 日本語を話す七実と英語を話すディールでは会話が成立するはずもなく、七実にはディールが何を言っているのか全く分からなかった。それはディールも同じことのはずなのだが、ディールは困った様子もなく、勝手に何かを話している。何となく、七実に何かを聞いていることは分かるのだが、何を聞いているか分からない以上、七実に答えられるはずもなく、仮に答えたとしてもディールはその答えが分からないはずだ。


「おい、どうなんだぁ?」

「ちょっと何言ってるか分からない」

「お前、まさか、言葉が分からないのかぁ?」


 何かを言ったと思ったら、急にディールが黙り始めて、七実はディールもようやく気づいたのかと思った。二人は沈黙したまま、しばらく向かい合い、これから何をすればいいのかと七実は悩み始める。


「英語くらい喋れるようになれよ、馬鹿」

「あっ、直球な悪口言ったな?それくらいは分かるからな?」


 七実とディールが伝わり切れない言葉で、これから低俗な争いを繰り広げるというところで、その場を通りがかった人がいた。七実の同僚である杜桷だ。


「あれ?七実先生?どうしたんですか?」


 七実が見知らぬ外国人と一緒にいることが気になったようで、杜桷が近づいてきた。七実は杜桷の登場に少し焦りながら、何を言おうかと悩んでいると、杜桷がディールに手を伸ばしてしまう。


「どうも初めまして。七実先生の同僚の杜桷樟杞です」

「おっ。ちゃんと話せるのかぁ。ラウド・ディールだ」


 そう言いながら、ディールが杜桷の手を掴み、握手をしている。英語の教師である杜桷はディールとの会話に困らないようで、二人は挨拶らしき会話をしているのだが、七実はディールが余計なことを言い出さないか戦々恐々としていた。


 流石にあのディールでも、仙人の話を急にすることはないだろうと思うかもしれないが、ディールにそういう常識は基本的に通用されない。明らかに話してはいけないことを平気で話し始める時がたまにある。特に周囲に英語が理解されない環境なら、その可能性が高い。少なくとも、七実が知っているディールはそうだ。


「ここに何を?」

「ああ…ちょっとそいつに急ぎの用があってなぁ」


 ディールと杜桷が話す姿に七実は気が気でなかった。何を言っているのか分からない以上、下手なことを言っても止めることができない。

 その前にディールを移動させないといけないと思い、七実は二人の会話を半ば強引に終わらせることにした。二人が話している時に、二人の間に物理的に割って入り、七実は杜桷に笑顔を向けた。


「ちょっと悪いけど、こいつはこれから用事があるらしく、時間がなくてな」

「え?そんなこと言ってませんでしたけど?」

「いや!それは…シャイだから!ちょっと言い出せなかっただけだと思う!」


 七実はディールの背中を押して、正面玄関から外に出そうとした。ディールは無理矢理に追い出されることが不満だったのか、怒った顔で七実に抗議をしているようだ。


「背中を押すなって怒ってますけど?」

「照れ隠しだから!気にしないで!」


 七実はディールをそのまま押し出し、杜桷から離れていく。正面玄関を出てから、正門の方に歩いていき、周囲に人がいなくなったことを確認してから、七実は数少ない知っている英語を口に出した。


「帰れ!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る