鯨は水の中で眠っても死なない(8)

 登校直後から机に項垂れ、居眠りでもしているのだろうかと思わせる、一人の男子生徒がいた。相亀だ。ともすれば、体調が悪いのかと勘違いする様子に、心配してくれたのかどうなのか、椋居むくい千種ちくさが声をかけてくれる。


「どうした?体調悪いなら、保健室行くか?」

「いや、そういうわけじゃないから、大丈夫だ…」

「何だ?それなら、どうしたんだ?」


 椋居は相亀の前の席に座り、机とべったり顔を合わせたままの相亀を見下ろしてきた。相亀が何かに悩んでいることを察したようだが、今の相亀の悩みはあまり人に話せないものだ。


「…………心が折れそうってことだけ、覚えておいてくれ…」

「また折れるのか?」

「その表現は腕も痛くなるからやめてくれ」


 右腕の次は心が折れかけている相亀に、椋居が面倒臭さを感じ始めていることは相亀にも分かった。直近で腕を折っていたこともあるから、何かあったのかもしれないと心配して声をかけたまでは良かったのだが、絡まない方が良かった状態かもしれないと、少しずつ後悔しているようだ。それに関しては相亀も否定できないので、特に何も言えない。


「どうしたの?」


 不意に背中に柔らかい感触が乗り、直後に聞き慣れた声が耳を擽った。柔らかい感触に触れた背中から全身に向かって、茹だるような熱さを感じ、相亀の身体は一瞬で真っ赤になる。


「ゲンちゃん?」


 不思議そうな声がそれに続いた直後、相亀は飛び上がるように跳ね起きて、背中に乗っていた羽計はばかり緋伊香ひいかを投げ飛ばしかけた。それが未遂で終わったのは、寸前で人を投げてはいけないと思ったとか、椋居が怒っていたからとか、そういう理由ではなく、羽計の腕を単純に掴めなかったからだ。

 相亀は羽計から逃れるように、教室の後ろまで下がって、真っ赤に染まった顔を怯えたものにする。


「ななななななな、何してんだ!?」

「今、『な』って何回言った?」

「なな回くらい」

「おっ、うまい」

「何を暢気に話してるんだよ!?」


 二十分くらい息を止めていたのかと思うほどの勢いで呼吸しながら、相亀が椋居と羽計に抗議した。楽しそうに談笑していた二人は不思議そうに相亀を見てくる。


「どうしたの、ゲンちゃん?好きな人でもできたの?」

「はあ?どういう質問だよ?」

「何か、悩んでるみたいだから」

「いやいや、それはないって。それなら、緋伊香に抱きつかれて動揺したりしないだろう?好きな人がいて、他の女子にドキドキしたりしないよ」


 好き勝手に言っている椋居と納得したように頷く羽計に、相亀の怒りは膨れ上がっていた。再度、抗議の意を込めて、相亀が二人にビシッと指を突き出す。


「あのな!好きな人ができたわけじゃないし、仮にできたとしても、俺は永遠に動揺する!」

「ええ~、ゲンちゃんの浮気性~」

「人聞きの悪いことを言うんじゃない!」


 楽しそうに笑いながら揶揄い続ける椋居と羽計に、相亀はすっかり心が折れかけたことも忘れて、憤慨していた。その様子を見ていて思ったのか、不意に羽計が相亀の右腕を触ってきて、相亀は再び動転する。


「ところで~」

「うわっ!?何だよ!?」

「ゲンちゃんの腕、ホントに大丈夫なの?」

「ああ、そうだよな。この前まで、あんなに包帯巻いて、ギプスもつけてたのに」

「大丈夫だよ。言っただろう?あれは大袈裟に巻かれただけなんだって」


 仙人である相亀は仙気の影響から、一般の人よりも傷の治りが全般的に早くなる。それは骨折のような重傷の場合も同じで、傷に対して適切な治療を施されると、傷の治りから考えた時に違和感しかないことが多かった。


 そのため、多くの怪我は最初の治療の段階から、本来よりも大袈裟に処置されたと説明しなければならず、今回も相亀はそのように説明していたので、大袈裟と言われた椋居と羽計は特に疑う様子を見せなかった。

 実際のところは、七実の登場によって予定よりも早く治ったので、大袈裟だとしてもおかしいくらいの速度になっているのだが、二人は疑問に思わなかったようだ。


「あっ」


 相亀から興味をなくしたように、羽計が教室の出入り口の方を向いて声を出した。そのまま、その方向に駆け寄っていき、入ってきた友人に声をかけているようだ。


「おはよう、ヌイちゃん。ちょっと遅かったね」

「ああ、おはよう。ちょっといろいろあって」


 そうして二人が話し始めようとした瞬間、学校中にチャイムの音が鳴り響き、担任教師である杜桷とかく樟杞しょうきが教室の中に入ってきた。


「はい。ホームルームを始めますよ。席に座ってください」


 その一言で羽計は残念そうに席に戻っている。相亀も席に座ろうとした瞬間、椋居が席に戻る前に軽く声をかけてきた。


「何か分からないけど、あんまり落ち込むなよ?」

「ああ、大丈夫」


 そう答えた相亀は既に覚悟を決めていた。諦めるつもりはないと思っていた。

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