鯨は水の中で眠っても死なない(10)

 七実に「帰れ!」と力強く言われたディールだが、もちろん帰るわけがない。というよりも、「帰れ!」と言われたところで、何を言っているか分かっていない。正門を指差す動きや怒りに満ちた表情で、何となく帰るように言われたこと自体は分かっているが、そのことは関係ない。


 ディールは七実が何を知っているのか、そのことが気になっていた。ディールは幸善がイレギュラーであることを理解しているが、その詳細は全く聞かされていない。その情報を知っているのは奇隠の一部だけで、それを聞き出そうとしたディールを追い出すように、ディールはQ支部に送られてしまった。

 そこで幸善自体はいたのだが、幸善は何も知らないようである上に、詳細な話は言語的な問題から聞けない。そのことに苛立ちもあった中で、自分よりも詳細を聞いている可能性の高い七実の存在だ。


 ディールはここで気になることを諦めるつもりがなかった。七実のプライベートを全て暴く勢いで、七実が知っている情報を引き出そうと考え、こっそりと学校の敷地内を移動し始めた。


 これは日本に限った話ではなく、敷地内を勝手に移動したら、確実に声をかけられる。それが話の通じない外国人なら、確実に怪しまれる。それはもう決定していることだ。

 誰かに見つからないように慎重を期しながら、ディールは七実の様子を窺おうとした。その慎重さは仙人として培ってきた経験を活かした万全の慎重さだ。


 だからこそ、そこで急に声をかけられたことに、流石のディールも驚いた。


「あっ、やっぱり、そうだ」


 その声に目を真ん丸くしたディールが振り返り、声をかけてきた人物を見る。気配があまりなく、それは普通の人間の行いではない。


 そう思ったら、それは相亀だった。


「お前かよぉ!」

「え?何か怒ってます?」


 ディールの迫力ある叫びに、相亀は意味が分からないながらも、ディールの感情を察したらしく、怯えた表情を見せてくる。その様子に頭を抱えながら、ディールはさっさとその場から立ち去ろうとした。


 その理由は誰かに見つかりたくないからではない。ディールは相亀を苦手としているからだ。


 相亀がディールを訪ねてきたのは数日前のことだ。その時に相亀はディールに必死に頭を下げ、何かを言ってきた。何を言っているのかは分からなかったが、様子から察するに何かの頼みであることは分かった。

 仕事関連なら鬼山を通すはずだ。ディールにQ支部を出ていってほしいという抗議も同じく、鬼山から苦情として言われるはずだ。


 そうではなく、直接本人を訪ねてきたということは、その頼みはディールに対する個人的なものということだろう。その内容について、ディールはいくつか心当たりがあったが、そのどれもが面倒なことに変わりはなかった。


 適当にあしらってしまおう。その時は簡単にそう思い、徹底的に相亀を無視していたのだが、相亀はその日から何日にも亘り、ディールの元を訪れては必死に頼んでくることを繰り返していた。それはディールが怒鳴ろうと、何を言おうと変わることがなく、ディールは完全に参っていた。


 ここで同じように絡まれたら厄介だと思い、ディールは歩き出そうとしたのだが、相亀はそれを許さなかった。さっとディールの前に回り、両手を広げて行く手を阻みながら、ディールに向かって何かを言ってくる。


「何してるんですか?どこに行くんですか?」

「良く分からないから、取り敢えず、退けぇ」


 ディールが相亀の身体を退けようとするが、ちょっとやそっとのことでは相亀は退いてくれない。そのことにディールは苛立ち、仙技を用いてまで相亀を退けようかと考えるが、多少の仙技は相亀も使えるので変わらない。


 面倒だと思ったディールが本気で殴ろうかと思った瞬間、ディールでも相亀でもない声が聞こえてきた。


「そこに誰かいるの?」


 その声は女のもので、ディールは小さく舌打ちをしながら、構えかけていた拳を下げる。聞こえてきた声を聞いた相亀はその声の主を知っていたのか、慌てた様子で何かを言い返している。


「その声は釘月か?いや、何でもないんだよ。気にしないでくれ」


 相亀はそう答えながら、声の聞こえてくる方に歩いていく。誰かと向き合って話しているようだが、ディールの立っている位置からは壁が邪魔で、誰がいるのか分からなかった。


 何だか知らないが、この間に逃げ出そうと思い、ディールが歩き出しかけた瞬間、相亀が上擦った声を出す。


「な、何だよ!?急にどうしたんだよ!?」


 その声に釣られ、ディールが振り返ってみると、物陰から見える手が相亀の肩付近に触れている様子が見えた。どうやら、女に急に触られて、相亀は酷く動揺しているようだ。良く分からないが、その程度のことで動揺するなと思いながら、ディールは無視して立ち去ろうとした。


 その寸前、伸びていた手が相亀の首元を強く掴んだ。明らかに首を絞めているとしか思えない動きで、そこから相亀の声も酷く苦しそうなものに変わる。


「な…にするん…だ…釘…月……!?」


 さっきまで照れて顔を赤くしていた相亀だが、今は明らかに照れではない理由で顔を真っ赤にしていた。その姿に流石のディールも異常さに気づいた直後、壁に隠れて見えないその場所から、異様な雰囲気が漂ってきた。

 その雰囲気が吹き出す瞬間、相亀の首を絞めていた腕を這う形で、水が相亀の口の中に流れ込んでいく。


だぁ!?」


 漂う異様な雰囲気の正体が妖気であることに気づいたディールは、咄嗟に相亀の隣まで走り、その水に向かって拳を振るっていた。その水は相亀の首を絞めていた女の口から溢れており、ディールが仙気をまとった渾身の一撃を放っても、衝撃を軽々と吸収して、相亀の口の中に流れ込んでいく。


「何だ、これはぁ!?」


 咄嗟に水ではなく、本体を殴るべきかと判断し、ディールが相亀の首を掴んでいた女の腹に拳を振ろうとした直後、その女がディールの腕に伸しかかる形で倒れ込んできた。ディールは意図せぬ形で受け止めるが、その時点で既に意識はないようだ。生きてはいるようだが、完全に気を失っている。

 そう思っていたら、その前で相亀も一緒に倒れ込んでいた。こちらも気を失っているようで、ディールが倒れてきた女を傍らに置き、軽く頭をはたいてみても、全く起きる気配がない。


 何が起きたか全く分からず、どうしようかとディールが思っていると、不意に相亀の目が開き、ディールを見た。


「おい。大丈夫なのかぁ?」


 ディールが目を覚ました相亀にそう聞くが、相亀は何も答えることなく、ゆっくりと起き上がってしまう。そういえば、言葉が通じなかったとディールが面倒に思った瞬間、相亀がゆっくりとディールを見てきた。


「この身体はしっくり来る」


 相亀の放った一言は間違いなく、だった。

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