熊は風の始まりを語る(12)

「絶望って何なんだろうね?」

「急に何?」


 愚者との秘密の連絡手段によって、愚者のいる場所に呼び出され、いつものように空を眺める愚者の隣に久遠が座った直後、第一声がそれだった。


(こいつは何を言っているんだ?)


 元から愚者のことを頭のおかしい変人であると久遠は思っているが、それにしても呼び出した相手に最初からぶつける内容ではない。


 いよいよ壊れてしまったのかと思う隣で、愚者は引き続き空を眺めたまま、久遠の質問に答えることなく、疑問を続けてきた。


「生きるって難しいよね」

「だから、急に何?哲学?そういう難しい話は分からないから、別の人にして欲しいんだけど」

「難しい話じゃないよ。生も絶望も万人が共通で味わっている物でしょう?君はどう思ってる?何で生きてるの?」

「何その質問?貴方の頭がおかしいと分かっている私だからいいけど、他の人に言ったら、死ねって言ってるみたいな質問だから絶対にしないでね」

「え?そんなこと言ってないよ?」

「分かってるって言ってるでしょうが」


 会話の歯車が一つズレていて、うまく噛み合うことがない。久遠はその浮ついた会話に苛立ちながらも、足蹴にするのも面倒そうだと一応は考えてみた。


「別に生きることって考えてまですることじゃないでしょう?赤ちゃんから成長して、大人になっていく過程で自我が生まれて、ようやく考えられるようになるけど、その前は別に何かを考えているわけじゃないし、気づいたらそこまで生きてるのよ」

「でも、自我が芽生えたら考えるよね?ここまでの人生を歩んできた意味とか、これから先の人生を歩んでいく意味とか」

「考えなくて歩んできたんだから考えなくていいのよ。意味なんかなくたって、何かを食べて眠っていたら生きるんだから。それに何より、人って簡単に死ねないのよ。貴方もそうでしょう?」


 久遠に聞かれて、愚者はゆっくりと首を傾げた。その動きに久遠は呆れたように溜め息をつく。


「前に言っていたじゃない。理由が必要だって。重い腰を上げるのに、理由だってエネルギーだっているの。死ぬって簡単なことじゃなくて、死ぬって決めて動くためには、死ぬためのやる気がないと無理なのよ。生半可なものじゃない。ダラダラ生きてた方が楽なこともあるのよ」

「それがずっと続くとしても?」

「仮にそうなったとしても、そうすると思うわよ、大概の人は。命でも何でも、いらない物ってハッキリ思ったものでさえ、捨てるのってそれ相応の覚悟がいるの」


 自分にとって必要な物。必要ではない物。それを頭の中に思い浮かべながら、久遠は目を落とした。

 自分で口にすればするほどに、久遠の目の前に突きつけられる現実は、久遠にとって必要ではない物ばかりだ。


「私は何で…こんな物ばっかり…」


 改めて気づいた現実に思わず愚痴を零しかけた瞬間、久遠は自分の顔を不思議そうに見つめる愚者に気づいた。


「何?」

「それなら、ずっとダラダラと生き続けられるの?死ぬことは疲れるから?それだけの理由で絶望しないの?」

「するわよ。そんな生き方ばっかりしていたら、どこかでちゃんと絶望するわ」

「え?なら、そこで死のうと思わないの?」

「思う人もいるんじゃない?……いや、思う人もいるわね…」

「その人はどうするの?死ぬの?」

「死なない…死ななかった…」

「それはどうして?」


 純粋無垢な子供のように疑問を投げかけてくる愚者を見つめながら、久遠は嘲笑気味に笑みを浮かべて、はっきりと言ってやった。


「パン屋にあんパンを見つけたから」

「え?」

「多分、そういうこと」


 久遠はドレスの裾を軽く持ち上げながら、ゆっくりと落とし込むように呟いた。

 その様子を大人しく眺めていた愚者が首を傾げる。


「どういうことか分からないなら、きっと理由がないのよ」

「理由?」

「動く理由。変える理由。やめる理由。全部、理由が足りないの。いらないことを考えていないで、ちょっとは生きる方法を考えてみたら?」

「生きる方法?」

「そう。死ぬこととか、絶望の話ばっかり。それってつまらない。後ろ向きに歩いていたら、どこかで躓くのは当たり前なのよ。ちゃんと前見てみて、そこで転んでから、そういうことは考えなさいよ」


 ドレスを軽く払いながら、それまでの雰囲気を吹き飛ばすように言ってのけると、今度は愚者が俯く番だった。


「また言われた。考えろって。考えてきたつもりなのに」

「人に聞かないで考えて、それから聞いて間違ってたら、また考えるものでしょう?そうやって、いろいろと考えて、適当に折り合いつけて、気づいたら死んでいるのが人間なのよ」

「そう…なのかな…」


 俯いた愚者の隣で久遠は軽く頭を抱えていた。


 愚者と話していたら、少し嫌な記憶とか、嫌な事実とか、そういうことを羅列されたような気分になる。分かり切っていることで、それを少しでも忘れたいと思い、一時の休みを過ごしているというのに、それも許してくれない気分になる。


 はあ、と少し大きな溜め息をつく。


(何で逢っているんだろう?)


 久遠は自分自身が少し分からなくなっていた。

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