花の枯れる未来を断つ(1)

 恨み。憎しみ。怒り。悲しみ。負の感情を詰め込めるだけミキサーに詰め込んで、無理矢理に掻き混ぜたみたいな、ぐちゃぐちゃの感情が胸の中に張りついていた。


 発端は思い返すまでもなく明白だった。葉様はざま涼介りょうすけとの会話から知ってしまったことだ。


 パンク・ド・キッドが動いている。その事実を聞いてから、水月みなづき悠花ゆうかは自分の気持ちが自分自身で分からなくなっていた。


 キッドは両親を殺した憎むべき相手だ。その思いは両親の死を知った時、確かに水月の胸の中にあった。今も奇隠で仙人として働いている理由の中に、その気持ちがなかったと言えば嘘になる。


 だが、それは既に決別した気持ちのつもりだった。


 憎むだけでは解決しない。仕返すだけでは何も得ない。妖怪と関わる上で水月はそれらを学習し、いつしかキッドに対する憎しみをすっかり忘れていた。

 少なくとも、水月はそう思い込んでいた。


 それは全て、ただの思い込みであることを水月は実感していた。葉様からキッドが動いている事実を聞いた瞬間、水月は忘れていた気持ちを取りに戻ったように、忘れていた憎しみの全てを思い出した。


 何も消えてはいなかった。ただ感情に蓋をして、それはそこにないと、思い込もうとしていただけだ。

 実際はずっとそこにあった。水月は湧き出た負の感情に心の内側を飲み込まれた。


 しかし、それら憎しみだけでは何も生まないと思っている気持ちも、決して偽物ではなかった。

 憎しみを忘れて、思い込もうとする上で生まれた気持ちではあるが、その気持ち自体も確かに水月の中に芽生えた気持ちだった。


 心の内側を憎しみや怒りなどの負の感情に支配されても、水月はそれだけではいけないという自制心で、その気持ちを押さえつけようとした。


 結果、水月はぐちゃぐちゃな気持ちを抱え、その気持ちとの付き合い方も分からないまま、日々を過ごす必要性に追われていた。


 それを忘れるために水月は手を尽くしたが、それにも限界はある。

 どれだけ刀を振るっても、消えることのない感情の前では、ただの時間稼ぎにしかならない。


 気づいた時には再び眼前に突きつけられ、否応なしに向き合うことを迫られる。その時に答えが出なければ、ずっと心の内側に居座り続ける。


 次第に水月の日常そのものに、ぐちゃぐちゃな感情は侵食しようとしたが、そのことに水月自身が気づけるはずもなく、それを止める手段もなかった。


 水月は頭の中でずっと憎しみと向き合い続け、その憎しみをどうするのか答えを見つけることで精一杯だった。


 だから、水月は周りが見えていなかったことも確かだ。それは心境的な部分でもそうだが、それ以上に現実的な部分でもそうだった。


 横断歩道を渡る時に信号を確認することはあっても、向こう側から向かってくる人を確認することはなかった。

 階段を上る時に段差の高さを確認することはあっても、段差の数まで数えることはなかった。


 そういう注意散漫な日々が続き、水月自身の中に気をつけようという気持ちが生まれ、それもぐちゃぐちゃな気持ちに取り込まれ、どうすることもできない中に水月は声をかけられた。


「危ない!」


 咄嗟に聞こえた声は危険を知らせるもので、水月はその女性の声を聞いた時、反射的に顔を上げていた。

 またやってしまった。その後悔と共に辺りを見回し、何が危ないのかと探そうとする。


 しかし、不思議なことに水月の見る限り、そこに危険の種は見当たらなかった。


 ぶつかりそうな人も、踏み外しそうな階段も、見逃しそうなガラスの扉も、そこには見当たらない。


 では、何に対する危ないという言葉だったのか。自分に対するものではなかったのか。そう思った水月が声のした方に目を向けようとした。振り返る形で、危ないと言った女性を見やろうとする。


 その瞬間、水月の背後で子供が飛び出し、水月の背中にぶつかった。不意に訪れた衝撃は水月の体勢を崩し、気づいた時には背後に倒れ込もうとしている。


(あ、危ない……)


 反射的にさっきの言葉を思い出し、追いついた現実に危険を理解したが、その時には既に遅く、水月は地面に背中を打ちつけようとした。


 その寸前、近くから手が伸びてきて、倒れ込もうとした水月の手が掴まれた。水月は咄嗟に腕が引かれ、何とか体勢を立て直すことに成功する。


「ごめんなさい!」


 子供が水月に謝って、その脇を走り去っていった。それを見送ってから、水月は自分の手を掴んでくれた人物を見る。


「大丈夫でしたか?」


 その声はさっき「危ない」と叫んだ声と同じものに聞こえた。

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