熊は風の始まりを語る(19)
数人の人間を引き連れ、その男は愚者の前に姿を現した。物理的に成型したのかと思うほどに、綺麗に作られた笑みを浮かべ、男は愚者に声をかけてきた。
「失礼。貴方がゼロですか?」
ゼロ。その名前を男が口に出したことに愚者は驚いた。
人型相手にはNo.0以外の名前を名乗らない。仮名を名乗る必要のある人間とはあまりコンタクトを取っていない。
ただ例外的に一人だけ、その名前を名乗り、その名前を知っている人物がいる。
それは久遠だ。久遠以外に知っている人間がいるはずがない。
しかし、目の前の男は愚者のことをゼロと呼んだ。それが愚者は引っかかり、つい眉を顰めながら頷いていた。
「そうですか。それは良かった」
男はそう呟いたかと思うと片手を上げ、その動きを合図に男の背後にいた人間が一斉に動き出した。
その中にいる特徴的なぎょろ目の男が、どうやら話しかけてきた男の取り巻きの統率者らしく、その男の指示を受けた他の人間の手によって、愚者は簡単に拘束されてしまう。
もちろん、妖術を使えばそれらを拒むことは可能だったが、相手が人間である以上、自身の正体を晒すことはできない。
驚きの表情のまま、周りの人間によって拘束される愚者の前で、最初に話しかけてきた男は淡々と自身の髪を櫛で梳いているところだった。短く切り揃えられた淡い赤色の髪が、綺麗に撫でつけられていく。
「終わりました」
ぎょろ目の男がそのように声をかけると、櫛で髪を梳いていた男が櫛を仕舞い、地面に座り込んだまま、両手を拘束された愚者を見下ろしてきた。
「よし。連れていくぞ」
「ちょっと待って!これは一体…!?」
「ああ、そうか。先に説明しておいてあげようか。不必要なところで抵抗されては困るからな。化け物に」
化け物。男の口からその言葉が飛び出た瞬間、愚者の背筋が固まった。
まさか、と思う気持ちを隠せずに、動揺を表情に現しいていると、その顔を見た男が不敵に笑みを浮かべた。それまでの笑みとは明確に違う、醜い感情の籠った笑みだ。
「そうだ。全部知っている。お前達が人間ではないことも全て。どうしてだと思う?」
久遠が話した。一瞬、そのように考えた愚者だが、久遠にそれらの情報を話してから、今日男達が訪ねてくるまで、かなりの時間があった。
今になって、久遠が人型の情報を他人に話すとは思えない。
それに何より、久遠と目の前の男の関係が愚者には分からなかった。
「調べたんだよ。あの女がコソコソと誰かに逢っているようだったからな。その相手が誰なのか、どういう人物なのか。そうしたら、お前達化け物のことが分かった」
「あの女…?」
「久遠だよ。知っているだろう?君とはとても仲がいいようじゃないか。でも、知っているのか?あの女がこの国に来た理由を」
「この国に来た理由?」
きょとんとした表情の愚者を見て、男は堪え切れなかったように高笑いを始めた。それに連なるように、周囲の人々からも小さな笑いが漏れ出してくる。
「何も知らずに逢っていたのか?とんだ馬鹿だな?」
「何?理由って?」
「いいか。良く聞け。あれはな、私の子を孕むためにこの国に来たんだよ」
男の口にしたその言葉に愚者は固まった。目の前が暗くなり、男の声が何度も頭の中で反響した。
「な、んて…?」
それでも何とか紡いだ声を聞き、男は更に笑い声を上げていた。
それから、男は自身の淡い赤色の髪を見せつけるように突き出してくる。
「見たまえ。酷い髪だろう?リズベット家は代々力を持っていたが、この赤い髪だけは忌み嫌われていたんだ。私もね、生まれた時から、この髪がずっとコンプレックスで、次の世代には持ち越してあげたくなかったんだよ。そうしていたら、ちょうどいい道具を見つけたんだ」
「道具?」
「久遠の家さ。あれは東の国で、それなりの力を持っている家だったそうなんだけど、既に落ちぶれていてね。自分達の地位を回復する方法を探していたんだ。それに私達が力を貸してあげる代わりに、一つだけ条件を突きつけたんだよ。黒髪の女を一人寄越せって」
「それで久遠が…?」
「そう。私の婚約者として、あれはこの国に来た。それなのに、知らないところで君のような化け物と逢っていた。本当に…もう…気が狂いそうなほどに腹立たしかったよ!」
男の爪先が愚者の顔に突き刺さった。頭が大きく後ろに跳ねて、愚者は背中から地面に倒れ込む。
「君や久遠をまとめて始末しようかとも思ったけどね。やはり、あの黒い髪は欲しいんだよ。だから、彼女は生かすことにした。だけど、君。君はね、正直、いらないんだよ」
男が愚者の髪を引っ張り、倒れ込んだ頭を無理矢理に持ち上げた。眼前に近づいた男の顔を睨みつけながら、愚者は自身の妖術で、自身の拘束を今すぐに解こうとする。
しかし、それはできなかった。愚者の妖気はうまく動いてくれなかった。
「動揺が顔に出ているな。もしかして、あの不思議な力を使おうとしたか?無理だろう?そのための専門家を雇ったんだ」
男はそう呟き、さっき愚者を拘束したぎょろ目の男に目を向けた。
「ウィム・シー・ランプ。彼の名だ。君のような存在を相手にする専門家らしく、君のことを話したら、ぜひ実験体として君が欲しいと言ってきたんだ。元々、君はどっちでも良かったからね。それなら、それでも構わないかと思い、君を捕まえに来たんだよ」
「……けるな…」
「ん?」
「ふざけるな…実験体になんかならない…」
男を睨みつけながら、愚者は必死に拒絶の言葉を発したが、それに男は一切の動揺を見せなかった。
「ああ、そうか。それなら別に構わない。君の仲間がいることも分かっているからね。他の化け物を捕まえよう」
その言葉に愚者の方が強く動揺した。
「待って!ダメだ!皆には手を出すな!」
「何?仲間意識?化け物にもあるのか。へぇ~。でもさ、お前がダメなら、他を捕まえるしかないだろう?当たり前だよな?」
ニヤニヤとした笑みを浮かべながら、男は愚者の顔を見下ろしてきた。何を求めているかは分かるが、それを口にしたくない気持ちも強かった。
だが、他の人型を巻き込むことはできない。そう思ったら、それを口にするしかないことも確かだ。
「……分かった」
仕方ない。そう自分に思い込ませ、何とか呟いた言葉を聞き、男はわざとらしく首を傾げた。
「え?何が?何が分かったの?」
「実験体に…なる…だから、皆には手を出さないで…」
「ああ、そうか。それは良かった。無駄な争いは嫌いだからな」
「ただ!」
愚者もただ全てを受け入れるつもりはなかった。ここに男が来て、男から話を聞いた瞬間から、ずっと思っていることが一つあった。
「その前に久遠と逢わせて…」
「はあ?」
「そうしたら、何でもなるから」
「ふざけるなよ?逢わせるわけないだろうが」
「なら、全力で抵抗するだけだ」
そう呟き、愚者は身体を無理矢理に起こそうとした。倒れてからも挑戦していたが、妖気がうまく動かない状況では妖術を再現することができない。
しかし、妖気自体を動かせないわけではないので、他のことに回すことならできる。
相手が人間なら、純粋な妖気でも十分な凶器だ。
それを男に向けようとしたが、その前にウィム・シー・ランプが声を出した。
「待ってください、アンドリュー様」
「何だ?」
「仮に拘束していたとしても、それは完璧ではありません。あらゆる実験のためには、その男の同意が必要になります。そのために、それを条件にしてあげましょう」
「条件?」
「全ての実験に協力してくれたら、その久遠という人物と逢わせる。それはどうでしょう?」
その提案に愚者は一瞬、前のめりになりかけたが、それをアンドリューと呼ばれた男が了承するとは思えなかった。
少し考えているようなアンドリューを見ながら、愚者は逃げ出すとしたら今しかないと、妖気を何とか動かそうとする。
それが完了する直前、不意にアンドリューが顔を上げて、笑みを浮かべた。
「確かに。それはいいな。条件として相応しい」
「え…?」
「どうだ、化け物?協力したら、久遠に逢わせてやろう」
「本当に…?」
「ああ、本当だ。嘘はつかない。全ての実験に協力したら、久遠と絶対に逢わせてやる。どうする?協力するか?」
「絶対に逢わせてくれるなら、協力するよ…」
首肯する愚者を見て、アンドリューは大きく笑みを浮かべた。
これで愚者とアンドリューの間に契約が結ばれ、愚者はランプの実験に協力することで、久遠と再び逢える瞬間を貰えることに決まった。
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