帰る彼と話したい(4)
防護服はQ支部内の倉庫に保管されていた。虫の姿をした妖怪を相手にする際、基本的には仙気を用いて対応するのだが、それを行いながらの対応が難しい仙人もいるので、その際に使用されるものだ。
倉庫の中に置かれている物は基本的に持ち出しが自由なので、倉庫に入るところさえ、目撃されなければ、誰にも気づかれることなく、防護服を持ち出すことは難しくなかった。
次に問題だったのが、件のカエルがいる部屋に侵入することだ。満木が不在のタイミングを狙おうかと思っていたが、満木は偉いことに仕事熱心なので、部屋からいなくなるタイミングが全くない。
それどころか、部屋の中を歩き回って、何かを探し始めたくらいだ。部屋の外から様子を窺っていたが、いつ見つかるかと気が気ではなかった。
そんな時、満木がアッシュに餌をやり、失敗したことで部屋から出るタイミングが訪れた。
これを逃したら、次に満木が不在のタイミングが訪れるか分かったものではない。
この時を逃すまいと水月は部屋の中に踏み込み、そこにいるアッシュと対面した。
防護服を着ているので、直接的にアッシュに触れることはないが、アッシュの姿が見える点は変わらない。
全身を襲う悪寒に襲われながらも、水月は何とか作戦を進めようと、手元にある二本の刀の内、長い方の一本を脇に置いた。
水月の目的はアッシュを追い出すことだった。このアッシュがQ支部の中にいる限り、水月はいつアッシュと遭ってしまうかという恐怖に襲われ続けることになる。
そうなっては仕事にならない。特訓もできない。
この状況を打破するためにアッシュを追い出そうと思ったのだが、水月がアッシュに触れるはずもなく、Q支部で保管している妖怪を勝手に殺したら、大問題になってしまう。
ここは勝手にアッシュが出ていってしまったという体を装うために、水月が用意した物がスプレー缶だった。これは空気を吐き出すもので、これを使ってアッシュを追い立て、Q支部の外に出そうと水月は考えていた。
最初は殺虫剤をばら撒こうかと思ったが、それで万が一にでもアッシュが死んだら、水月は良くて減給、最悪クビだ。
水月は片手にスプレー缶、もう片方の手に脇差『
「ほ、ほら……動かないでね……」
緊張と恐怖から低く震えた声を出しながら、水月はアッシュに近寄っていく。知らない人が見たら、防護服を着た特殊な嗜好の持ち主がカエルに迫っているようだが、迫っている人は寧ろ、カエルが嫌いである。
水月はアッシュを追い立てるように刀を振るい、その進路を調整するようにスプレー缶で空気を吹き始めた。
アッシュとしても切られたくはないだろうし、強く押してくる空気に抵抗することもできないはずだ。
実際、アッシュは水月の思惑通りに動き出し、ぴょんと跳ねて、出入り口に近づいた。
「ヒ、ヒィッ……!?」
その動きに怯えながらも、水月は必死に刀とスプレー缶を動かし、アッシュを移動させようとした。草刈りのような動きで、右に左に刀を払い、アッシュの背中を押すように空気を打ち出す。
アッシュはそれに従って、ぴょんと跳ねて移動するが、いつも目的通りというわけにはいかず、たまに想定外の方向に飛ぶこともあった。
「ヒ、ヒィッ……!?そっちじゃないよ……!?」
水月は怯えながら方向修正をするが、修正した先でまた逸れたら同じ上に、修正しようとした動きで、想定外の移動を見せることもある。
本来なら、出入り口まで一分もかからないはずなのだが、それもあってか、二分、三分と時間が過ぎてしまい、次第に水月は焦るようになっていた。
このままだと満木が戻ってきてしまう。満木が戻ってきたら、水月の目的は失敗に終わってしまう。
その前に何とか外に出さないと。水月は焦りながら、刀とスプレー缶を動かした。
その焦りが出てしまったのかもしれない。水月の刀と押し出す空気に動かされ、アッシュが出入り口から離れるように、ぴょんと跳ねた。
それ自体、水月の想定外の動きだったのだが、それ以上に想定外だったのが、その跳ねた先だ。
アッシュは出入り口から離れるように跳ねた。本来、水月は出入り口に追い立てようとしていたので、それは真逆の行動となるのだが、その真逆の位置に何があるのか、水月の行動から考えると、誰でも分かることのはずだ。
アッシュを挟んだ出入り口の対面。そこには水月が屈み込んでいた。
ぴょんと跳ねたアッシュの身体が防護服に張りついた。それもちょうど水月の頭のことで、水月は目の前一杯に広がるカエルの腹を見ることになった。
その瞬間、水月の全身を寒気が襲い、一瞬で鳥肌が体表を支配した。
慌てて頭に被っていたものを放り投げて、水月は飛び跳ねるようにアッシュから離れる。アッシュは水月が放り投げたことで宙を舞い、出入り口にぶつかって床に落ちた。
「ギャアァアアアア!?」
水月は絶叫し、自分の顔を拭いまくった。顔についたわけではないが、目の奥に残った光景が顔全体に張りついているような感覚がしていた。
転がり、のた打ち回り、不意に顔を覆う指の隙間から、アッシュがこちらを向いていることに気づく。
「ヒッ……」
恐怖で思わず息を呑んだ直後、アッシュの舌が不意に伸びて、水月の身体を拭い上げるように撫でた。
水月は咄嗟の出来事に声を失い、骨の髄にコンクリートを流し込まれたように固まった。
瞬間、水月の着ていた防護服がべろんと剥げて、水月の身体から剥がれ落ちていく。気づいた時には、水月は防護服の下に着ていた制服を曝け出している。
「え……?へっ……?」
その状態に水月が呆然としたところで、狙っていたかのように部屋の扉が開いた。
「ただいま。待たせてごめんね」
そう言いながら、満木が部屋の中に入ってきた瞬間、扉近くにいたアッシュが部屋の外に飛び出した。
「あ、あれ?貴女は水月さん?」
不思議そうにする満木の前で、水月は部屋から飛び出すアッシュの姿を思い出し、しばらく呆然とした後、絶叫した。
「やっちゃった!?」
「うわっ!?何ですか!?」
水月の突然の絶叫に満木が驚く中、叫びながら立ち上がった水月は、顔を真っ青に変えていた。
確かにアッシュは想定通り、部屋の外に追い出すことができた。
しかし、本来はアッシュを追い出した際に水月も部屋の外に出て、そのままQ支部の入口まで連れていくことで、Q支部から追い出すつもりだった。
それが水月は部屋の中に取り残され、アッシュだけが部屋の外に出てしまった。
つまり、アッシュはQ支部の中で行方が分からなくなったことになる。
このままだと水月は突然、現れたアッシュと対面する恐れがあり、それを永遠に警戒しなければいけなくなる。
見つけ出さないといけない。顔面蒼白の水月は絶望と共に決意した。
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