許可も取らずに食って帰る(13)
豚舎の壁に目を向けるが、覆った土煙で有間の姿は見えなかった。氷の壁に衝突し、倒れ込んだ皐月は動く気配がない。
恐らく、意識を失っているのだろうと美藤は思った。
浅河はザ・タイガーの奥に消え、氷の壁が阻んでいるので、今は様子が窺えないが、さっきの様子を思い出すに、意識があるかどうかも怪しく、あったとしても動ける状態ではないだろう。
有間だけ様子が分からないとしても、基本的に動けることが確定しているのは、この豚舎の中に美藤だけだ。
もしも、ここで美藤が倒れてしまったら、有間隊は全員殺されるしかない。
空気中を漂う、鋭利な棘のようになった氷が動き出す直前、美藤は冷静にその事実を確認し、震えていた。
負けてはならない。倒れてはならない。死んではならない。様々ないけないことが頭を過って、何をしたらいいのか分からなくなる。
氷が動き出しても、それは変わらず、ただ飛び出す氷の向かう先を見ていた。
一つは自分に届くだろう。もう一つはザ・タイガーの近くに落ちるだろう。更にもう一つは豚舎の壁にぶつかるだろう。
そう思ってから、氷が自分以外に向かうことに違和感を覚え、美藤は我に返った。
ザ・タイガーの狙いは自分だけではなく、倒れた皐月や姿の見えない有間にも向いているようだった。
確実に止めを刺すためだろう。そんなことをされたら、ここで美藤が氷を避けたとしても、有間隊の半分が死に絶えることになる。
それは望んでいない。それは絶対に防がなければいけない。
美藤は咄嗟に手を上げて、その手を覆うように仙気を移動させた。
次の瞬間、美藤の手から仙気の塊が飛び出し、空中を移動し始めていた氷にぶつかっていった。
小さな爆発を起こしながら、空中で棘のような氷が破片となって散らばっていく。
自分に二発、皐月に一発、有間に三発。氷の数は多かったが、美藤の武器は弾数の多さだ。それらを全て落とすことは簡単だった。
着弾よりも遥か手前で全ての氷が落とされ、ザ・タイガーはしばし呆然と美藤を見ていた。
幸善が妖怪と話せることは知っている。妖怪に意思があることも分かっている。
それでも、妖怪や人型とは明らかに違って見える擬似人型に、どれだけの意思があるのか美藤には分からなかった。
今も何かを考えているのか、ただコンピューターの機能が停止したように、動きを止めているだけなのかが分からない。
自分が動き出しても、ザ・タイガーを刺激しないのか、美藤には判断できない。
ただ、いつまでも膠着状態を続けるわけにもいかない。ザ・タイガーの近くに倒れた皐月だけでも回収しないと。
美藤は立ち上がり、皐月の元に走り出そうと腰を落とした。
その瞬間、さっきも聞いたザ・タイガーの咆哮が響き渡った。
耳を劈くような音に美藤は顔を歪め、耳を押さえたまま動きを止めた。正確には動くことができなくなった。
キーンという甲高い音が耳の奥で響き、何かと思って顔を上げた時には、もうザ・タイガーが美藤の前まで歩いてきていた。
巨大な氷の塊を身にまとい、とうにトラでも人間でもなくなった氷の化身が美藤の前に立ち塞がる。
腕も、足も、胴も、氷も、全てが分厚い。硬度は想像するまでもなく、重さは既に味わっていた。
死んだ。本能が頭の中で呟いた。
それを否定する声もなく、美藤は自分に向かって落ちてくる、ザ・タイガーの氷の腕を見上げていた。
ゆっくりと、スローモーションになって、氷の塊が近づいてくる。死の瞬間を忘れないように、全てをくっきりと残せるように、美藤の目や脳が全力を尽くしているようだ。
そんなことに全力を割かなくてもいいのに、と美藤は思いながらも、身体は指の一本も動かせないまま、氷の塊が落ちてくる様子を見ていた。
そこに何かが割って入ってきた。氷の塊の端に届いて、美藤の視界に侵食するように、氷の塊を押していく。
それが何かと美藤の意識が向きかけた頃、美藤の耳の奥で響いていた甲高い音が静まった。
「雫ちゃん!逃げて!」
不意に有間の声が聞こえ、美藤の感覚が正常に戻った。
瞬間、ザ・タイガーの身体が強く押され、美藤の視界から弾かれるように飛んでいく。
代わりに頭や腕から血を流した有間が飛び込み、美藤の前で倒れ込んだ。
「さ、沙雪ちゃん!?」
美藤が身体を起こして、目の前に倒れ込んだ有間に近づいた。
有間は意識がはっきりとしていないのか、虚ろな目で美藤を見てくる。
「雫ちゃん。逃げて」
さっきと同じ台詞を、さっきよりも弱々しい声で吐きながら、美藤は再び起き上がろうとしていた。
しかし、今の有間を再び立たせるわけにはいかない。美藤はその肩を押さえて、動かないように必死に訴えた。
「ダメだよ!沙雪ちゃん!動かないで!」
「雫ちゃん。逃げて」
そう言いながら、尚も立ち上がろうとする有間を、美藤は必死に両手で押さえつけようとしていた。この状態になっても、有間の力は強く、美藤の力を簡単に押し返してくる。
それでも、有間を動かせるわけにはいかないと、奮闘する美藤を邪魔するように、視界の端で何かがゆっくりと動いた。
その動きを確認するために、美藤が目を向けた先で、ザ・タイガーがゆっくりと起き上がろうとしている。
その光景に目を向けた美藤は、隠すことなく驚きを表情に出し、有間を押さえようとしていた両手から力を抜いた。
その間に、ザ・タイガーがゆっくりと立ち上がった。
「動けたんだ……」
不意に美藤の口から声が漏れ、そして、顔に柔らかな笑みが浮かんだ。
「ギリギリね……」
その声がザ・タイガーの肩の上から落ち、ザ・タイガーが振り返ろうとした。
その直前、ザ・タイガーの顔に向かって手が伸ばされた。
そして、その手を伸ばした浅河が呟いた。
「吹き飛べ」
瞬間、浅河の手から飛び出した仙気が、ザ・タイガーの頭とぶつかり、大きな爆発を起こした。
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