影は潮に紛れて風に伝う(1)

 本部でのいざこざは多少あったが、頼堂らいどう幸善ゆきよしの日常は無事に戻ってきた。いつもの教室のいつもの席に座り、幸善はいつものように授業を受ける。特訓の過酷さから一時はどうなることかと思ったが、再びここにいられることに幸善はホッとしていた。


 授業の最中、教壇に立っていた御柱みはしら新月しんげつが振り返った。幸善の高校で処世術を教えている御柱だが、裏では幸善と同じように仙人として活動しており、幸善の本部行きに同行した人物でもあった。


 その御柱が幸善を指差してきた。授業中に当てられることはあっても、顔を指差されることなど中々ない。

 幸善が驚きや動揺を見せていると、幸善の顔を指差したまま、御柱が教壇から幸善の席まで歩いてきた。


「おい、頼堂。教科書とノートはどうした?ただ聞いているだけでいいと思っているのか?」

「え?いや、でも、処世術の授業ですよね?それなら、教科書とかはいらないんじゃ……」

「何を言っているんだ?実技教科がじゃないんだぞ?教科書もノートもいるに決まっているだろう?ちゃんと机の上に出すんだ」


 御柱の指摘に慌てふためき、幸善は机の中に手を突っ込んだ。本来なら、そこに教科書もノートも入っているはずなのだが、今は机の中を自由に移動できるほどに何もない。


「ご、ごめんなさい……忘れたみたいです……」

「教科書を?ノートを?」

「どちらも」

「お前は授業を受けるつもりがあるのか?もういい。廊下に逆立っていなさい」

「はい……」


 教科書とノートが必要であるにもかかわらず、それを忘れてしまったことは完全に幸善の落ち度だ。これも仕方ないと思いながら、幸善は教室を後にする。


 そこでは先に御柱から怒られていたグリズリーのテディが逆立っていた。その隣に幸善も移動し、廊下に手をついて逆立ち始めた。


「何だ?お前も怒られたのか?」


 二人並んで逆立っていると、テディが軽く笑みを浮かべながら聞いてきた。自分の方が幾分早くに怒られたというのに、何を揶揄おうと思っているのだろうかと苛立ちながらも、幸善は頷いておく。


「教科書とノートを忘れたんだ」

「そうか。不真面目め」

「そういうお前は何を怒られたんだよ?」

「俺は隣の奴を食っただけだ」

「何だよ、いつも通りかよ」


 からからと笑うテディに日常を感じ、幸善は逆立ちながらも、改めてホッとした気持ちを感じる一方、帰国早々廊下に逆立たされる展開に、少しだけ滅入る部分もあった。


「そういえば、アメリカ旅行はどうだったんだ?」

「まあ、いろいろとあったけど、有名人にも逢えたし楽しかったよ」

「有名人?ハリウッド俳優とかか?」

「いや、あれは……えーと……」


 幸善は本部に向かう前、本部に移動するために立ち寄ったアメリカで、日本でも有名な人物と逢ったはずだと思い出そうとしたが、有名な人物に逢ったという事実しか頭の中に浮かんでこず、しばらく悩むことになった。

 誰だったとか、名前は何だったとか、そういうことを必死で考えてみるが、靄がかかったように答えは見えてこない。


 そう思っていたら、次第にゆっくりと何かの文字が頭の中に浮かび上がり、それが少しずつ読めるようになった。


「ノ…ワール……?そうだ。ノワールだ。黒い犬のノワールに逢ったんだ」

「ああ、あのノワールか。どうだった?」

「思っていたよりも大きかったな。百八十くらいあったんじゃないか?」

「そんなに大きいんだな。もう少し小さいと思っていた」


 廊下に逆立ったまま、幸善とテディがそのように雑談を始めた声が教室の中にも届いたのか、二人が会話を続けていると、教室の扉が開いて御柱が顔を覗かせた。


「おい、うるさいぞ。授業中なんだ。黙って立っていろ」

「ああ、ごめんなさい」

「すみません。静かにしま……ゲプッ!」


 御柱に謝ろうとしたテディが盛大なげっぷを噛まし、口の中から人の腕が飛び出してきた。喉の奥から飛び出してきた腕を御柱が注意するように指差す。


「おい。ちゃんと消化してないじゃないか。周りに血が零れたら滑るんだ。ちゃんと片づけておけよ」

「ああ、あい、あかりやした」


 口から腕を出しながら、テディがそう答えると、満足してくれたのか御柱は教室の中に戻っていった。


「怒られてたな」

「ひかたない。ちゃんとのひこはないと」


 テディが口から飛び出した腕を腹の中に押し込もうとした瞬間、その手が不意に伸びて、逆立っている幸善に絡みついてきた。突然のことに幸善は動揺し、体勢を崩して廊下に倒れ込む。


「な、何だよ!?」

「一緒に逝こうか、耳持ち」


 不意にその声が耳元で聞こえ、幸善が身体を起こそうとすると、身体に絡んだ腕が幸善の耳元で頭を形作り、幸善に話しかけていた。


「ひ、人型ヒトガタ!?」


 そう思った直後、幸善のいた廊下が急に崩れ、人型にまとわりつかれた幸善の身体が一気に落下し始める。どこに落ちるのかと思った幸善が視線を下げた瞬間、そこに広がるのは一面の海だ。


「最期まで一緒だ」

「お前と一緒は嫌だ!」


 必死になって幸善はまとわりついた人型を引き剥がそうとしたが、人型の身体は自由自在に動いて、幸善の身体から離れようとしなかった。それに抗っている間に海面はどんどんと近づいて、幸善の恐怖は増していく。


「落ちる……!?死ぬ……!?」


 そして、幸善の恐怖が最大まで膨らんだ瞬間、幸善の身体にまとわりついていた人型の身体の一部が変化して、見慣れた頭を作り出した。


「幸善君と一緒にいたいからね?」

「え……?」


 不意に現れたその顔は東雲しののめ美子みこの顔だった。東雲の顔から東雲の声が聞こえ、動揺した幸善は動きを止める。


 その直後、幸善の身体が海面に到着し、猛烈な衝撃と共に盛大な水柱が立った。

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