花の枯れる未来を断つ(17)

 振り返った先で目撃することになった光景を、クリスはしばらく理解できなかった。


 自身に向かって飛んでくる透明な板。その板とクリスの間に割って入る檜枝。その二つが目の前で重なった。

 透明な板は檜枝の身体に遮られたように静止し、檜枝は透明な板に身体を固定されたように動かなかった。


 そこから、次の変化が現れるまでの時間はとても短かったと思う。ほんの数秒のことのはずだ。


 透明な板を赤く染めながら、その板の上に乗った檜枝の身体がゆっくりと前方に倒れてきた。ハンバーガーのバンズのように、上半身と下半身が別の物として、玄関先にぼとんと落ちる。


「ちょっ……?ちょっと……?」


 クリスは声を失ったように手を伸ばし、そこに倒れ込む檜枝の上半身に触れた。


 何を期待したのか自分でも分からない。触れる必要もなく、檜枝に起きたことは見るだけで分かったはずだ。

 だが、その現実を否定するように伸ばした手が、どうしようもない現実を叩きつけてきた。


 もう動かない檜枝に触れ、クリスの頭から思考が飛ぶ。半分になった右手も、殴り飛ばされた顎も、どうでもいいことに思えた。


 怒りではない。怒るほどに檜枝を知らない。

 悲しみではない。悲しむほどに檜枝を知らない。


 湧き上がってくる感情の名前も分からないまま、クリスはアザラシ人間に目を向けた。アザラシ人間は小さな草花から解放され、檜枝の家の奥で今にも立ち上がろうとしていた。


 許してはいけない。不意に湧いてきた気持ちを抱え、クリスはアザラシ人間を見据えた。


 自身の生み出す植物でアザラシ人間に何ができるかと聞かれたら、何もできないと答えるしかない。それくらいに今のクリスに手はない。無力だ。

 それでも、湧いてきた気持ちはクリスの身体を動かし、アザラシ人間に対して攻撃しようとした。


 アザラシ人間がこちらを向く。その時に合わせて、クリスは再び植物を生やそうとする。

 さっきとは違い、今度は植物のサイズと量を増やす。アザラシ人間の足を止めるのに、さっきの植物が半分の効果しか発揮しなかったのなら、効果が二倍になるように調整すればいいはずだ。


 クリスが仙気を動かし、アザラシ人間が何かをしようと身体を動かした。


 その時、不意にクリスの身体を浮遊感が襲った。まるで身体が宙に浮かぶような感覚で、足で地面を踏みしめる感覚が綺麗に消え去る。

 そのことに戸惑ったのも一瞬のことで、クリスはすぐに頭上を見た。


 浮遊感の正体は謎でも何でもなく、ただ単純にクリスの身体が本当に宙に浮いただけのことだ。クリスの身体を掴み、空を飛び始めた人物がいて、頭上に目を向けたクリスはその人物の姿を見た。


「またなの、ビビ」


 苛立ちの籠った声を零し、クリスは頭上で飛ぶ男、ビビ・フェイスを見た。フェイスはいつもの感情の読めない冷めた顔で、自身の掴んだクリスを見下ろしてくる。


「遅いから迎えに来ました。危ないところでしたね」

「危なくないわよ。前に比べたらね」


 認めなくない気持ちが強くなり、とても嫌そうに呟いたクリスだが、危なさで言うなら、ラウド・ディールと遭遇した時の方が危なかったことは間違いない。


 あの時も今回と同じようにフェイスに助けられ、クリスは何とか命からがら逃げ切ったが、今回はまだそういう状況に陥ってなかった。

 檜枝は殺されてしまったが、それだけのことだ。クリスはまだ十分に戦える。


「彼女が殺されたことは残念ですが、これはあくまで寄り道です。ここで命を懸ける必要はありません」

「分かってるわよ。それくらい」


 クリスは腹の底に溜まっていた苛立ちを吐き出すように呟いた。


 檜枝が目の前で殺されてから、クリスはずっと抱えている気持ちがあった。その気持ちを何と表現すればいいのか、クリス本人も分かっていなかったが、今になったら何となく分かる。


 これは玩具を取られた子供の気持ちだ。遊んでいた玩具を取られ、取った相手に苛立っている気持ちだ。

 その気持ちのあまりの子供っぽさも含めて、クリスの中で苛立ちは膨れ上がっていた。吐き出したいと思うが、吐き出す相手がいない。


「吐き出したいのなら、次にしてください」

「次っていつよ?いつまで待たされるのよ!?」


 クリスが身体を大きく動かし、フェイスは少し表情を崩して、クリスの身体を押さえるように掴んだ。


「暴れないでください。落ちます」

「仕方ないでしょう?こっちは待たされて、イライラし始めてるのよ」

「それなら安心してください。動いてもいいと連絡が届きました」


 フェイスの知らせにクリスは動きを止めた。ゆっくりと頭上に目を向けて、確認を取るようにフェイスの顔を見る。表情に変化はないが、嘘をついているようにも見えない。


「本当に?」

「はい。準備を整えたら、予定通りに始めます」

「そうなの。ようやく……」


 クリスはそれまでの苛立ちが嘘のように笑みを浮かべ、飛んでいく先に目を向けた。


 日本に来て、いろいろなことが起きてしまったが、最大の目的をようやく果たす時が来た。そう考えたら、これまでの鬱憤が途端に消えていくようだ。


「帰ったら、すぐに準備を始めてください。悟られる前に動きます」

「分かっているわ。さっさとを回収しましょう」


 クリスとフェイスが空を飛びながら、この会話を繰り広げている頃、妖気を察知した奇隠の仙人が檜枝の家にようやく到着したが、既に現場からアザラシ人間の姿はなく、檜枝の遺体だけが発見された。

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