花の枯れる未来を断つ(12)
眼前にアザラシ人間が姿を現した瞬間、クリスの頭には様々な死に方が浮かび上がった。透明な板の正体は未だ分かっていないが、あの板に触れた先にある顛末は右手が語っている。
板に挟まれ、死亡。板に押し潰され、死亡。板に遮られ、死亡。板が通過して、死亡。板に封じられ、死亡。板に切断され、死亡。
死。死。死。死。死。死。予想した未来全てに押される死の烙印に、クリスは絶望した。
戸惑い、震え、湧き上がる絶望に吐き気を覚え、クリスは目の前のアザラシに意味もなく、腕を振り上げる。
「うわぁああああああ!」
狂ったように叫びながら、半分を失った右手を振るって、目の前のアザラシを殴りつけようとした。
仙術を使えると言っても、クリスの腕力はか弱いものだ。たった一発の拳で、それも負傷した手を振るったもので、目の前のアザラシを倒せるとは思えない。
だが、既に道理など捨て去り、恐怖と怒りに包まれ、目の前のアザラシの姿しか映っていないクリスには、それ以外の手段が存在しなかった。
振るった右手がアザラシ人間の顔を捉えようとする。
その直前、アザラシ人間は「ウォッ」と小さく呟くように鳴き、右手を振り下ろすクリスの死角から、自身の右手を振り上げた。
発達した水掻きによって、ヒレのようにも見える手だが、しっかりと握られた際には人間の拳のようなものが浮かび上がり、その中心がしっかりとクリスの顔を捉えた。
クリスの右手がアザラシ人間の顔に触れる直前、死角からの一撃に襲われたクリスは大きく跳ね上がり、檜枝の家の中に戻るように吹き飛んだ。
その光景を怯えるように見つめる檜枝を越え、クリスは玄関先の廊下に倒れ込む。
綺麗に顎を捉えた拳はクリスの意識を奪うところまでは行かなかったが、クリスの視界を十分に揺らすことには成功していた。
天井と床が入れ替わり、壁と一緒にダンスを踊っている。目の前の光景に意味の分からない感想を懐きながら、クリスはゆっくりと自分の置かれた絶望的状況を実感し、表情を歪めた。
「ふざけるな!」
そのように声を出そうとしたが、口はうまく回らなかった。顎を殴られたことで口周りの自由が利かない。
顔はどうなった。不意にクリスは思った。
顔はどうなった。口はどうなった。顎はどうなった。傷は残らないか。疑問が湯水のように湧き出て、クリスは揺れる視界の中で周囲に目を向けた。
鏡。自身の姿を確認できる鏡を求めた。
その時、鏡よりも先に檜枝の姿が目に入った。さっきクリスに突き飛ばされ、廊下に座り込んだまま、怯えた目で吹き飛ばされるクリスを見ていたはずだが、今はクリスから目を逸らし、さっきまでアザラシ人間が立っていた場所を見つめている。
それ自体はどうでも良かった。本能的に鏡を求めるクリスは鏡以外の物に興味を示さない。
ただ問題は檜枝の見つめる先だ。そこではアザラシ人間が立っているのだが、その視線は明らかにクリスに向いていなかった。座り込む檜枝に向き、檜枝と見つめ合っている。
それが揺れた視界の中でも分かり、クリスは鏡を探すことをやめた。
「はぁ……?」
怒りが僅かな声として漏れ、クリスはアザラシ人間を睨みつけた。その視線にすら反応することなく、アザラシ人間はひたすらに檜枝を見ている。
クリスが一発の拳で殺されるはずがない。それくらいのことはアザラシ人間も分かっているはずだ。意識を刈り取れるだけの拳かも、自身の拳なら分かることだろう。
それなのにクリスから目を逸らし、檜枝を見ているのには理由がある。
そもそも、アザラシ人間の現れたここは檜枝の家だ。
「そういうことか……」
納得したように呟き、クリスは無理矢理に身体を起こした。足には力を入れ切ることができない。右手は半分ほどがなくなり、その状態にした透明な板の正体は分からない。
それでも、クリスを突き動かすのは怒りだった。
「ふざけるな……」
唇は震えて言葉の端々がちゃんと発音できているのか怪しいところだった。
それでも、クリスは怒りを吐き出すように言った。
「私はついでか!?」
アザラシ人間の目的は檜枝の方だった。クリスと同じように檜枝の力を知り、それを利用するためか、始末するためにこの場所を訪れた。
クリスはそこにたまたま居合わせ、たまたま戦いに巻き込まれ、たまたま右手の半分を失った。
それに納得できるはずもなく、クリスは床に手を伸ばした。
クリスとアザラシ人間の戦闘が始まってから今はまだ数分だが、この時間が長引けばアザラシ人間の妖気を察知した奇隠が動き出すだろう。
その状況を作り出せば、アザラシ人間を地獄に引っ張ることができる。クリスも共倒れになる可能性が高いが、一人で負けを押しつけられるよりはマシだ。
稼げるだけ時間を稼いでやる。その意思を込め、クリスはアザラシ人間の足元から植物を生やした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます