花の枯れる未来を断つ(11)

 クリスの手は側面から透明な板に触れた。小指から手首にかけて、ゆっくりと伸びていく形で、透明な板に触れる面積を広げていた。


 その時のクリスの頭の中では二つの可能性が浮かんでいた。


 一つは草木と同じように手が通過し、何も起こらない可能性だ。草木に干渉しなかったことを考えたら、通常はこちらの可能性の方が高い。


 二つ目は透明な板が板としての役割を持ち、クリスの手を受け止める可能性だ。理由は分からないが、草木には干渉せずにクリスの手には干渉するようにできている場合、この可能性が十分に成り立ち、檜枝の反応から想像するに十分あり得る可能性ではあった。


 その二つをイメージし、クリスが手を振り上げる速度は速いものではなかった。飲み物が零れ、慌ててティッシュを取る時の方が動きとしては速い。


 それくらいの速度で透明な板に触れ、クリスの手は気づいた時には手の中ほどまで潰れていた。小指から薬指にかけての骨や肉が跡形もなく消えている。最初から手はその形をしていたように跡も残っていない。


 その一瞬の出来事にクリスの理解は追いつかなかった。手を引くことも、言葉を口にすることもできないまま、透明な板と触れた部分から血が吹き出し、それに合わせて猛烈な痛みが腕を貫いた。


「ああああああああああ!手がぁあああああああああああ!」


 引き戻した手を抱きかかえるように腹で押さえつけながら、クリスは耐えかねる痛みから逃れるように絶叫した。

 何が起きたのか頭は理解できていなかった。ただ今は手の半分が抉れた痛みに襲われ、それ以外のことは考えられそうになかった。


「ちょっと待ってください!」


 檜枝が慌てて走り出し、部屋の奥からタオルを引っ張ってきて、クリスの元に持ってきた。それで止血のために手を押さえようとするが、冷静さを失ったクリスはその行動を許さなかった。


「触るな!」


 駆け寄ってきた檜枝を押しのけ、クリスは床から植物を生やした。自身の手を植物で覆わせ、何とか止血には成功するが、痛みは振り上げた右手を中心に、クリスの中に残り続けている。


「殺す……!」


 透明な板の正体はどうでもいい。クリスは目の前のアザラシ人間を睨みつけ、床に手を触れた。左手の内側でポップコーンが弾けるように種を生み出し、それが溜まったら、拾い上げて構える。


「死ね!」


 クリスは握った種をアザラシ人間に向かって放り投げた。


 種はざっと数えて数十個はある。その全てが特別に作り出したもので、妖気を糧に成長するものだ。

 妖怪にとって妖気は命そのものである。それを吸い出す種は致命的なダメージを与えるもので、一つでもアザラシ人間の身体に触れたら、それだけアザラシ人間の命を終わらせる代物だった。


 しかし、その種の接近にもアザラシ人間は動揺することがなかった。ゆっくりと手を動かし、再びアクリル板のように透明な板を生み出すと、それを壁のように自身の前に置いた。


 心なしか、さっきより薄いその板を見ながら、クリスは最高に相手を蔑む目を向け、口を開いた。


「馬鹿なの!?植物に触れられなかったその板で、種を防げるわけがないでしょう!?」


 所詮は動物。その程度の知能。クリスはアザラシ人間の末路を想像し、小さく笑みを浮かべながら、その種がアザラシ人間の身体に触れる瞬間を待った。


 だが、その瞬間は永久にやってこなかった。


 クリスの投げた種は全てアザラシ人間の前方に置かれた透明な板で止まり、クリスの手がそうだったように、そこで綺麗に消失した。


「は…ぁ……?」


 目の前で起きた光景を信じられないと言わんばかりに目を見開き、口をぽかんと開けたまま、クリスは動きを止めた。

 透明な板は草木に干渉しなかった。その前提がクリスの頭の中にはあったから、クリスの作り出した種が止められることはないと思っていた。


 しかし、現実は違った。種は全て透明な板を通過することなく、そこで最期を迎えていた。その光景を目撃しても、クリスには透明な板の正体を考える余裕がなかった。

 怒りと痛みだけが頭を支配し、クリスは更に苛立ちを募らせていた。


「何よ……それ……ふざけるな!」


 クリスは痛みを忘れたように右手を床に押しつけ、アザラシ人間の足元から植物を生やした。

 透明な板の正体など考える必要はない。至近距離から押し潰せれば、それで何もかもが終わるはずだ。


 植物はアザラシ人間の足に絡みつき、そこから、ゆっくりと上半身へと登っていった。登れば登るほどに植物は力を増し、上半身に到達した時には足を強く締めつけ始めている。

 このまま頭に到着した時には足が潰れ、上半身も次第に締めつけられ、アザラシ人間は何の抵抗もできないまま圧死する。


 その光景をクリスは思い描いていたのだが、植物が上半身に到着した直後、アザラシ人間はまだ植物の届いていない手を動かし、自身を覆うように四枚の透明な板を作り出した。


 それら四枚の板がゆっくりとアザラシ人間に接近し、アザラシ人間を中心に交差して、そのまま通過した。機械が物体をスキャンするような動きだったが、その動きでアザラシ人間の身体が消えることも、そこにまとわりついた植物が消えることもなかった。


「何?ハッタリ?」


 嘲笑を浮かべながら、クリスはアザラシ人間を眺めていたが、その呟きの直後、目の前の光景は変化した。


 アザラシ人間にまとわりついていた植物は途端に元気を失い、ゆっくりと色を変えたかと思えば、次第に枯死していった。


「何……?何をしたの!?」


 そのさっきまでとは違う植物の変化に動揺し、問い質すように叫んだクリスの前で、アザラシ人間が「ウォッ」と声を上げた。


 その直後、クリスの眼前にアザラシ人間が移動した。

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